これって「太っている人への社会からのパワハラ」じゃない?と思ったこと

先日職場でちょっと有名どころのお菓子を3つ頂きました。

 

有名どころのお菓子なのでこれは食べなくちゃ損だよねと思って大切に持ち帰り、夜ご飯の後に、食後のスイーツとして美味しく食べました。

 

美味しいお菓子が3つあれば、3つ食べないと気がすまなくなるのは、大量に食べたくなる過食症だった名残りなのか?単に食いしん坊なのか?両方かもしれませんが、食後の満足感と少しの罪悪感でごちそうさまをしました。

 

そしてその翌日、職場の事務員さんが突然「私こういうの苦手だから貰ってくれない?」とデスクの引き出しから昨日のお菓子3つを取り出し、私に渡してきました。

 

私は昨日満足したし、3つ食べてしまった罪悪感もあったので「え、じゃあ1個だけ貰うよ」と言いました。

3つもらったら、私の場合たいてい1日のうちに3つとも食べてしまうのが分かるので、罪悪感もそうだけど、過食嘔吐で弱ってしまった胃に、昨日に続き負担がかかることを避けたかったためです。

 

事務員さんは「いいよ、3つ貰いなよ!娘ちゃんにあげてよ」と言ってきたので、

 

私は「子どもたち2人とも今ダイエッターだから、お菓子食べないんだよね。今朝も下の子が早朝ウォーキングしてて。」と言いました。

 

貰わないための嘘ではなく、2人の娘はダイエット中でした。

 

高校3年の長女はもう3〜4年ダイエッターなので知識もそれなりにあって、

食事だけではなく、毎日自重トレーニング的な筋トレをして、アルバイト先まで徒歩で30分、ファミレスの接客は有酸素運動として捉えていて、

意識して太らない生活を続けています。

(受験生なので時にめちゃくちゃな食生活になっていたりしますが)

 

少し前から早朝ウォーキングを始めた中学3年の次女は、昨年運動系の部活動をやめてから3キロ太ったことを気にして、

数か月前からYouTubeを見ながら脚が細くなるストレッチ&筋トレを始めていました。

 

その次女の様子を長女が見て「生ぬるい筋トレだけで効果が出るわけないじゃん」と言い放ち、

 

「筋トレして脚が締まったとしても細くなるわけないじゃん!ママ、この子何度言っても分かってないんだよね!」

と自分はダイエットできている自信があるので、次女の生ぬるいダイエットが気になるようで私に言ってきます。

 

私は、子どもたちのダイエットがエスカレートして摂食障害になったらという不安は常に持っていますが、

そうなったらそうなったで、阻止することなんてできないので、もう仕方ない、自分の子育てを省みても取り戻せない引き返せない、

我が子が摂食障害だというその現実に対応していくのみだと考えています。

 

この先がどうなったとしても、ここは一先ず、ダイエットしたいという子どもたちの気持ちを応援しなくちゃと思うので、

 

次女には「お菓子を食べないダイエットが1番効果的だよ」

合わせて、

有酸素運動をした方が脂肪が落ちるから筋トレの引き締め効果と同時進行することが効果的だよ」

と基本的すぎるアドバイスをしました。

 

そして次女はその翌日からお菓子を断ち、その後1か月ほど経った数日前から、早朝ウォーキングを始めたわけです。

 

そんなわけでお菓子の行き先の当てが外れた事務員さんは

「えー!娘ちゃん中3でダイエット!?うちの娘(専門1年生)ダイエットなんてしたことないよ!」と驚いていました。

 

そして、私とほぼ同世代の同僚の管理栄養士さんも驚いていて

「今の子って大人なんだね〜私が中3の時なんて1日5食で、友達とマックよく食べてたわ〜」と言いました。

 

2人の驚きを見て、逆に私は驚きました。

 

私は今から30年ほど前の高校1年の夏にダイエットを始めて拒食症になりました。

 

ダイエットをする、痩せたいと思うことに、

今の子も昔の子も関係ないと思っているし、

それは、その子が子どもっぽいとか、大人っぽいとか早熟だとか、そういうのでもないと思っています。

 

今も昔も痩せていることはどうしたって羨望の的です。

若い頃は、「世の中の美の基準」「社会からの目」「自分はどうみられているか」を過度に気にする人が、ダイエットにはまりやすいと思っています。

 

なので、世の中の美の基準、社会からの目が気にならない「私は私でいい」と思える人なら、

ダイエットなんて考えもしない。1日5食で学生生活を送るでしょう。

 

周りを気にしないで生きていける人がここにいたんだ〜

 

という事実に、私は羨ましく思いました。

 

そりゃ、いろんな人がいるので、

普通に考えたら、私のように周囲からどうみられているかを気にして、

世の中の基準からはみ出して社会からバカにされないようにと、

「痩せていることを武器にして、痩せていることで弱い自分を覆い隠していた人間」の方がはるかに少数派なんだと分かるのですが、

 

人間どうしても自分を基準に考えてしまうので、そんな自分とは異なる生き方を聞くと、あ~自分はやっぱり特殊な学生時代だったんだと思いました。

 

誰だって生きていれば「なんで私だけこんな目にあうの?」という出来事に遭遇するんじゃないかと思っています。

 

私は1日5食食べていた彼女に対し、食べることを躊躇せず、美味しい美味しいって食べたいものを何でも食べられていたことになんて平和で羨ましいの!と思うのですが、

 

1日5食食べていた彼女からしてみたら、私はこんなに辛い思いをしてきたのに、あなたはなんて平和で羨ましいの!と思うような事がきっとあるはずなんですよね。

 

私の娘のような10代、今の若い世代の子たちは、どんどんスリムになっていますよね。

 

昨年度、長女の文化祭に行った際にも、太ってるなと思う子も、ぽっちゃりさんだなと思う子も、目につかなかった気がするんですよね。

みんなスリムだなぁと思いました。

 

厚生労働省による国民健康・栄養調査の近年のデータにおいても、20代以下の女性の約5人に1人が、BMI18.5未満の「痩せ」だそうです。

 

例えば、クラスメイトのうち5人に1人が「痩せ」せだとすると、女子高のクラスメイト30人のうち、6人が「痩せ」ということで、これって結構多いと感じませんか?

 

それに加え私の印象としては、BMI18.5未満の「痩せ」ではないけど、BMI適正値18.5以上25.0未満の中の、18.5〜20.0以下くらいがとても多いんじゃないかなと思うので、

 

「痩せ」が5人に1人いる上に、BMI値18.5に近い子が多ければ、全体的にスリムな子が多いという印象を持つのも当たり前なんでしょうね。

 

私の娘のように、みんながみんなダイエットをしているとは思えませんけど、

スマホで簡単に写真や動画を撮って見る機会が彼女たちの日常なので、

自分の外見を常に客観視できるということで、多くの人が自分の容姿を意識するような環境にあるといえますよね。

 

そんな環境の中で、「私は私でいい」と生きていくもの、なかなか難しいだろうなと思ってしまいます。

 

女芸人さんとか、女を捨てたかのように自分の容姿のコンプレックスをネタにしてデビューすることって、「私は私でいい」と生きていく模範的な例だと思いますが、

 

デビューから数年後、痩せて綺麗になって女を取り戻してるみたいなことって結構あって、

 

そんな女芸人さんを見るたびに、

コンプレックスをネタにしながらも、

いや、そのコンプレックスをネタにするからこそ、

「自分がどうみられているか?」という意識がものすごくあって、

 

「綺麗に見られたい」「羨ましいって注目してもらいたい」「女性でありたい」っていう思いが強くあるんだろうなと思うんです。

 

私は私でいいと生きていけたら最高、

私は私でいいとコンプレックスをバネにして輝けたらもっと最高です。

 

どうしたって、多くの女性が「痩せて綺麗になりたい」と思っていて、

若い世代もミドル世代もシニア世代も、それ以降の後期高齢者も、それは今も昔も1ミリも変わりません。

 

なぜ、今も昔も「痩せて綺麗になりたい」という思いが1ミリも変わらないのかというと、

 

結局のところ、

作り上げられた共通の美の価値観に、私たちがまんまとハマってしまうような社会全体の仕組みが変わらないためです。

 

私は中学・高校だった当時、

「太っている人は頭が良いか可愛い子以外、バカにされ虐められる」

と感じ、頭が悪くて太っている自分を否定し、

社会から他人からバカにされないように、「痩せる身体に避難するように」拒食症になりました。

 

こんな風潮は今も当時と変わらず、

「太っている人は成功者以外人権なし」

と感じています。

 

この風潮って多少大袈裟かもしれませんが、

「太っている人への社会からのパワハラ

「太っている人への社会からの虐めじゃない?」

と思ってしまいます。

 

だからといって、

私が社会を変えられるわけでもないので、ただの戯言にしかならないのですが。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。



「吐けない過食症」と私が思う「リバウンド」について

過食症はごく一般的には、

大量に食べてそれを嘔吐する行為と言われています。

 

なぜそんな行為をするのかと本当に簡単に説明するのであれば、「太りたくない」ためです。

大量に食べてしまったという罪悪感はあれど、嘔吐すれば太ることを妨げることができます。

 

しかし、

この大量に食べることを妨げることができない過食症の人がいます。

 

「吐けない過食症」の人です。

 

食べっぱなしです。

しっかりと消化吸収されますので、当然体重は増えてしまいます。

 

吐けない過食症の人は恐らく下剤を大量に飲んで、上から吐けない分下から出すことで、

食べたことを食べなかったことにしようと試みると思いますが、

 

下剤の効果は大腸の蠕動運動を活発にするか、便の水分量を増やして柔らかくして排泄をスムーズにするだけなので、

 

栄養の消化吸収を担う小腸には影響はないために、エネルギーや脂質はしっかりと体内に吸収されてしまうと考えた方が良いでしょう。

 

(嘔吐する過食症の人も下剤を乱用する方は多いです。自分もそうでした。)

 

そんな吐けない過食症の人は、吐くことができる過食症に比べ、体重は増えてしまうことが多いので、自分に対しての嫌悪感は嘔吐できる人の比ではないと思います。

 

私も嘔吐できなかった時があったので、嘔吐するコツを何となく掴むまで、

食べた後は本当にこの世の終わりというくらいの暗闇に突き落とされたような絶望感と、

自分の喉に手を突っ込んで胃に入ったドロドロの食べ物を掻き出してやりたい気持ちになりました。

「もー!ヤダー!吐けない!!」と喚き散らしたこともありました。

 

私が看護学校に通っていた今から20年以上前の話なのですが(中退してます)、

若い頃に摂食障害だったという外部講師の社会福祉の先生に、悩みを聞いてもらったり、摂食障害という病気について教えてくれたり、随分お世話になったことがありました。

 

とっても細くて色が白くて可愛くて、クラスメイトの誰もが可愛いと言うような先生だったのですが、

その先生が学生だった当時、タレントになろうと芸能事務所に所属していたそうで、

事務所から痩せろ痩せろと言われて徹底したダイエットをした結果、過食症になったと言っていました。

 

先生は吐けない過食症だったそうです。

 

過酷なダイエット生活に耐えられなくなり芸能事務所は退所したそうですが、過食症はそのまま抱えることになり、

大量に食べてみるみるうちに元の体重よりも太ってしまったと言っていました。

 

先生は太った身体を何とかしようと毎日プールに通い、何キロも泳いで体重を元に戻し、社会福祉の道を選び、いつしか過食もしなくなったと言っていました。

 

先生は当時私に

「リバウンドは必ずくるから、それがないと摂食障害は治らないわよ」

と言いました。

 

リバウンドって、ダイエットで言うところの、「短期間に急激に痩せた後に身体が元に戻ろうとする生態防衛反応」はもちろんのこと、

 

精神的に何かを抑制をしていると、いつかその抑制の蓋が外れて、抑えていた気持ちが外に飛び出すような、そんな「メンタル的なリバウンド」もあると思っています。

 

私は結婚していた頃に、離婚したい離婚したいとずっと思っていたけど、勇気がなくて我慢していましたが、

ある出来事をキッカケにもうこれはやるしかない!と、抑制していた気持ちをリバウンドで跳ね返らせて蓋をぶち開けて、自分の人生と子ども達と元旦那さんのためにも、離婚に向けて行動することにしました。

 

そんなことを思うと、

確かに、「抑えていたものはリバウンドさせないと次に進めない」と考えたりするのです。

 

抑制の蓋が外れる時、リバウンドする時は、「臨界点、ピークに達した後の転換期」という感じで、

リバウンドは個人にとって良いにしろ悪いにしろ、「起爆剤」のような効果があると言えるような気がします。

 

吐けない過食症の人も、吐ける過食症の人も、過食する時は何らかの抑制の蓋が外れるピークに達した時です。

 

人間関係で我慢していたピーク

将来への不安のピーク

仕事して疲れを感じたピーク

 

1週間間隔のこともあれば、1日のうちにやってくるピークもあります。

 

ピークが来れば過食して、過食したことに罪悪感を抱えることになりますが、

臨界点やピークに達すれば「転換期」になりますから、そこから「流れを変える」ことができます。

 

ちょっと理解されにくいかもしれませんが、

私は過食して嘔吐するたびに、自分のそれまでの汚い自分をリセットできるような感覚を抱いていました。嘔吐は浄化作用でした。

そして過食嘔吐した後は、浄化された清らかな自分になれたような気がして、翌日頑張ることができました。

 

嘔吐できない人でも、恐らく多くの人が下剤は使っているんじゃないかと思えるので、下から出すことでそれなりに浄化された気持ちになり、翌日にはそれまでがリセットされて、振り出しに戻ったような感覚になるんじゃないかなと思っています。

 

良いのか悪いのかは置いておいて、過食はそこからまた生きていくための「起爆剤の役割」になるなんですよね。

そんな理解されにくいおかしな起爆剤がなければ、摂食障害の方には生きていくことが難しいんです。

 

短期間でダイエットしてリバウンドするのも、身体が命の危険を感じて元に戻そうとする転換期であり起爆剤。「変化させようという力が働く時」です。

 

吐けない過食症の人は、食べた後にきっとどん底まで落ちていくような気持ちになると思いますが、

恐らく私が思うに、

過食したものを不本意ながらも嘔吐せずに消化吸収できているため、

嘔吐する過食症の人よりも、「過食症の克服は早いんじゃないか」と思っています。

 

自分で食べると決断して食べたものを、下剤は使っていたとしても、「自己責任のもとに消化吸収できている」ためです。

嘔吐する人は、これができません。

 

私は嘔吐が下手だったので苦しかったため、連日過食嘔吐するようなことがないように、毎日相当に気を張っていました。

ペロッと吐けてしまう人は、「簡単に吐けるから毎日やっちゃうし辞められないの」と言っていましたね。

 

吐けない過食症の人はとっても辛いだろうけど、いつか必ず治ると自信を持って欲しいと思っています。

 

ちなみに、

何度も書いていますが、私は左上腹部の良性腫瘍の発見という、長い年月積み重ねた過食嘔吐による大きなリバウンドをくらい、

強制的にこれまでの過食嘔吐人生から転換せざるを得なくなりました。

 

ここで方向転換できずにそのまま過食嘔吐を続けていたら、今度は救いようのない病気になってしまっただろうと思っています。

 

リバウンドって、身体にとってもメンタル的にも、本来は「必要だから」やってくるんだと思います。

 

本人にとっては不本意でも、「必要な変化」なので、それを受け入れなければ「次へ進めない」気がしています。

 

人間関係で我慢していたことでやってくるピーク

将来への不安からやってくるピーク

仕事して疲れがたまったことでやってくるピーク

 

これら小刻みにやってくるピークにも、

何らかの必要な促しであって、

「抑制している、無理している生き方を動かすため、是正するための起爆剤の役割」だという気がしています。

 

社会福祉の先生が「リバウンドは必ずくるから、それがないと摂食障害は治らないわよ」そう言っていた意味を深読みしてしまいましたが、そんなような気がしています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

摂食障害さんも多様性の流れに乗って!埋もれている貴重な人材がいます!

摂食障害は精神科や心療内科の領域の疾患ですが、

鬱病統合失調症とは異なり、精神障害者手帳の対象となる疾患ではありません。

 

摂食障害者さんでも、精神障害者手帳の対象となる疾患を併発していれば、その対象となるようですが、摂食障害単体では手帳は交付されません。

 

摂食障害さんが精神障害者手帳の対象となる疾患ではないということ、分かるような気もするのですが、難しいところだなとも感じています。

 

経験者である私が何度もブログで言っているように、「摂食障害は人生に立ちはだかる成長のための大きな壁」です。

 

誰もが生きていれば、試練ともいえる大きな壁にぶち当たることがあると思います。その壁を乗り越えることで人として成長できるということを、その乗り越えた経験から学んでいる人は多いと思います。

 

抱いている夢を叶えるための壁、結婚生活や子育てによる壁など、個人によって異なりますが、

その「成長のための壁」が、とある人にとっては「摂食障害だった」ということです。

 

なので、

人として1人前になるためにセッティングされたような摂食障害という壁だから、

精神障害者手帳の必要はないよ」というのも、分かるのです。

 

しかし、

壁を乗り越えるための支援として、精神障害者手帳があっても良いのではないか、という気もしています。

手帳があれば、社会的な支援が受けられるので、気持ちが上向けば自立しやすくなります。

 

摂食障害にも他の病気と同じように、その症状には軽度〜重度など程度があると思っています。

自分の経験や出会ってきた摂食障害さんを通し、以下勝手に症状に「レベル付け」をして少し話をしていきます。

 

「軽度」はいわゆる「痩せたいのでダイエットをする」レベルです。

多くの女性が片足突っ込んでいるレベルなのかもしれません。

 

痩せることへの拘りが強く、太ることへの絶対的嫌悪という意識も強いため、社会で生きていくことに何らかのストレスを感じますが、社会生活は営むことができるレベルです。

 

「中等度」は「健康を損ない、嘔吐するようなレベル」です。

「社会から引きこもってしまう」場合も「中等度レベル」です。

 

軽度と同様、痩せることへの拘りが強く、太ることへの嫌悪があります。

ダイエットは過激化し生理が止まるなど健康被害が出たり、

過激化したダイエットの反動で過食をするようになったり、食べた後の強い罪悪感から嘔吐するようになります。

 

嘔吐は常習化しやすいため、その奇異な行動が止められない自分に自信を喪失していき、社会生活を営むことが難しくなり、引きこもる人も出てきます。

 

「重度」は「医療機関の助けや入院を必要とするレベル」です。

親の適切な保護がなく飢餓状態になっていたり、低栄養に至るケースは命の危険が伴います。

 

そして、中等度のレベルが継続すると「慢性化」します。

 

痩せたい太りたくない病的な意識はそのままに、過食嘔吐が長期に渡り続きます。

なんとか生活ができる人と、生活が難しくずっと引きこもってしまう人がいます。

 

過食嘔吐は依存症というカテゴリーなだけあって常習化して癖になります。

なんとかしなくちゃという問題意識は強く持っていても、どうしても止めることができず症状は慢性化します。

長期に渡り放置すれば「じわじわと健康被害」が出たり、時に「急性期的な被害も現れる」ため実はかなり危険な状態です。

 

この摂食障害レベルで、

軽度レベルの方は何とか社会生活を営むことができますが、

中等度の人・慢性化した人は時に、社会生活に不安を抱き、社会から遠のいてしまうこともあり、まともに働くことができなくなります。

また、重度の人が退院した後も、社会的なフォローがなければそのまま社会からフェイドアウトしていくでしょう。

 

このように、社会から遠のいて引きこもってしまうような摂食障害さんを、「社会的に支援していくような場が現状とても少ない」と思っています。

 

摂食障害は立派な障害であり、精神障害者手帳の対象とならないような、いわゆる軽度の精神疾患というカテゴリーならば、

もっと社会からの支援や受け入れ体制があっても良いんじゃないかと思っています。

私が20代の頃の20年前と、あまり変わっていないんじゃないのかな?

 

今至るところで、人材不足の解消、多様性の尊重ということで、障害を持つ方への社会復帰が進められているので、

とにかくこの今の「多様性」の流れに乗って、摂食障害という病気に対して、「社会からの理解が得られたら」と思っています。

 

働きたくても自信がなくて、「社会参加のチャンス」を逃して引きこもっている摂食障害さん、そんな「貴重な人材」が実は山ほど埋まっていると思うのです。

 

摂食障害精神障害者手帳の対象ではない障害ですし、

注意欠陥多動性障害ADHD)や自閉スペクトラム症などと違い、病名は知られているのに社会的理解はイマイチなんですよね。

 

まあ理解されないですよね。奇妙でしかないし。

ガリガリなのに痩せたいとか言って必死に野菜と蒟蒻の食事を続けてるし、

痩せたいなら食べなきゃいいのに、食べて吐いて勝手にずーんって落ち込んでるし。

 

就労支援など職場のフォローが整わないことは、この疾患が奇妙で、社会的な理解が得られないことも大きな要因なんでしょうね。

 

摂食障害が理解されないのって分かるんですけど、もう本当に多様性に乗っかってほしいんですよね。乗っかるしかないんですよ。

ずっと来なかった流れがきている「チャンス」なので。

 

摂食障害って、「自分が成長するためにセッティングされた試練ともいえる大きな壁」ですが、

その壁を乗り越えるために何が必要かって、「社会との接点」なんです。

「社会を通して人と関わっていくこと」で、様々なことを学ぶんです。

 

摂食障害さんには、そんな「壁を乗り越えるための大切な機会」を逃さないようにしてほしいし、

社会としては、「貴重な人材を育て確保できるように、手厚くフォローしていく体制を整えるべき」だと思うのです。

 

摂食障害の患者数は増加しているので、もしかしたら数年後、摂食障害患者にも精神障害者手帳の交付が適応となるかもしれないという期待もできるし、

そうすれば、手帳を利用した就労支援なども利用できたりするので、支援の幅も広がっていくのかなと思えます。

 

今は「多様性」というワードだけでも立派なビジネスになるので、ちょっと兆しが出れば、ここぞとばかりに摂食障害さんを支援していく事業を展開していきそうな気がしますし、

そんな風潮に個人的には危うさも感じたりしますが、

 

摂食障害さんが「障害を持ちながらも社会参加できる」ような体制作りが進む「多様性」というチャンスが、切り開いていけば良いなと思っています。


今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。



私が思う「過食症の克服」と「依存症」について

前回のブログでギャンブル依存症過食症について書き、

依存症は人間の弱さ故の「防御だ」ということも書きました。

 

ギャンブルするお金があったから

食べることはストレス解消だから

セックスするのが好きだから(セックス依存)

 

そんな単純なことで依存症に陥るわけではありません。

 

人間の持つ繊細さ感受性、

それらが強いために、

社会的環境と自分との間にズレを感じたり、フィット感のなさに不安を抱き、

社会と調整を保つために必死にもがいている在り様が依存症だと、私は思っています。

 

社会は自分を歓迎してくれると思える人、自分に自信があり強く生きていられる人には、依存症に陥る人が理解ができないかもしれませんが、

そんな生き方でしか社会に対峙できない人もいるのです。

 

依存症はそんな人間の気質や性格でもあるためか、過食症だけではなく他の依存症を併せ持つ人がいたことを思い出しました。

 

過食症セックス依存症

過食症とパートナーへの過剰な依存

 

2人とも数回通った自助グループで出会い、深い関わりは持たなかったので詳しくお話するまでのエピソードはないのですが、

過食症以外の依存症を持っているということを淡々と語っていました。

2人とも「過食症ともう1つの依存症」という認識を持っていました。

 

セックス依存症の女性は、

セックスをしたいわけではないけど、男性と関わると離れていかれることが不安だからセックスを求めてしまうと語っていました。

「それは自分を虐めてることだよ、やめた方がいいよ」と彼女に言ったことを覚えています。

 

パートナーへの依存があった女性は、

自分は糖尿病1型で(生まれつき血糖値を下げるインスリンの分泌が不足しているため、食後血糖値の上昇を抑えるために一生涯に渡りインスリン注射をしなければいけない。いわゆる生活習慣病の2型糖尿病とは異なります)、

過食したのにインスリン注射を打たず、高血糖で倒れて旦那様に迷惑をかけることをわざと繰り返した挙げ句、とても若い女性でしたが父親のような年齢の旦那様と離婚したと言っていました。

 

何故、2つの依存症が必要になるのかは、

やはり、自分の弱さや繊細な心を過食症だけでカバーすることができないためでしょう。

 

私たちは基本的に、まずは目の前にある、周囲にある社会的環境に合わせて生きるように育てられるし(学校教育など)、

環境から逸脱しようものなら、それが成功者にならない限り、人権ないまではいかないけど、バカにされるような風潮って依然としてありますよね。

 

目の前にあるフィールドで生きていく調整作業のひとつとして、自分を武装して防御しながら生きているのが依存症なので、

1つの防御で不安なら、もう1つ防御が必要となるわけで、複数あることで安心できるのでしょう。

 

どう生きていけばいいのか分からず不安定である時は、少しでも生きていると実感できるような確かなものが欲しくて、すぐ手にできる依存症に溺れます。

 

大量に食べることで解放感が得られ、

自分の身体を差し出して男性が喜べば、自分の存在価値が得られ、

高血糖という自殺行為で男性の気を引き付ければ、自分を心配してくれるという安心感が得られます。

 

しかし、次の瞬間には、

太る恐怖が襲ってきて

喜んでくれた男性はいなくなり

心配してくれた男性は自分をおいて仕事に行く

 

自分はダメな人間だ

自分は愛されない人間だ

迷惑をかけて嫌われてしまった

 

自分が身体を張って求めたものを確かに得られたはずなのに、

不安感や虚無感は倍増して自分を苦しめるようになります。

 

快楽も苦痛も

幸せも不幸せも

生きているという実感を十分に与えてくれます。

 

依存症の人たちは、空虚感を埋めてくれるものを「ただただその瞬間に繋ぎ合わせるようにして」生きています。

 

滑稽なようですが、生きるために必死にもがいている姿なんですよね。

 

そんな依存症の治療法として、

精神療法や認知行動療法薬物療法などあるようですが、

 

アルコール依存症は、一生涯にわたり断酒飲することでアルコール依存症から離脱できる

薬物依存症は、薬物に属するものを一生涯にわたり断つことで薬物依存症から離脱できるわけで、

 

アルコール依存症も薬物依存症も一生涯それを手に取らなきゃいいんだから、治療しやすくていいじゃない」と思っていました。

 

「こっちは過食症。食べ物を一生涯食べないなんてできないじゃん。だから過食を回避するなんて至難の技だよ。」

アルコール依存症や薬物依存症から離脱するそれこそ至難の技だと理解できずに、そう思っていました。

 

過食症の人は普通に食べることもできます。

 

人により程度は違うかもしれませんが、過食症の人がみんな朝昼夕3食過食しているかといえば、そんなことありません。

 

私は仕事が休みになる週末過食が多かったですし、1日に1食とか、1週間に1食とか、過食せず普通に食べられる時はあると思います。

 

普通に食べていたのに急に過食スイッチが入ってしまったとか、普通の食事と過食の棲み分けは神経を使うことだけど、

 

過食症の方が学ばなければいけない重要なことのひとつとして「食べ物を受け容れる」ことがあると思うんですよね。

 

それが、

同じように体内に入れるアルコール依存症や薬物依存症との大きな大きな違いだと思っています。

 

自分で食べること(過食すること)を「選択し決断した」のなら、

「責任を持って」それを消化吸収させなければいけない。

 

自発的嘔吐や、下剤を使って自分のした選択と決断を排除して、「食べなかったことにしてはいけない」ということです。

 

人は「食べなければ生きていけません」。

食べ物を消化吸収させずに身体から排除しようとするのは、「生きることを拒絶していることと同じ」です。

 

本来であれば、

「自分で食べると決めた」なら、「生きる選択をした」のなら、

「自己責任のもとに」全て受け容れなければいけないんです。

 

「自分の選択と決断を受け容れる」

「食べた物を全て受け容れる」

「生きることを受け容れる」

 

何度もブログで書いていますが、

過食症の克服って、そこに到達することだと思っています。

 

過食症と縁切りできる時、過食を克服できる時は、食べると過食の棲み分けに神経を使わないし、過食しないようにと頑張る必要などなくなります。

 

「もう過食は要らない」というように、自然と縁が切れていきますから。

 

過食症の克服までの道のりは、幾つかブログに書いているので、参考にして下さい。

 

依存症の人たちは、空虚感を埋めてくれるものを「ただただその瞬間に繋ぎ合わせるようにして」生きていますが、

 

依存症ではない多くの人たちは、その空虚感の埋め方が瞬間の繋ぎ合わせではないというか、虚無感を「継続してシッカリ埋めるもの」を求めることができるのかもしれません。

例えば、健康づくり、貯金、結婚、信用を得られるような仕事や人間関係などです。

 

依存症の人は長期的に物事を捉えられない傾向があるのかもしれません。

確かに、自分もそんな傾向だった気がしています。

 

だからこそ、

あり得ない程の金額をギャンブルで失うことも可能だし、

アルコールや薬物や過食で健康寿命を縮めて、早くして1人で排泄できなくなって介護される身になることなんて、1ミリも考えられないのです。

まさに「今を生きる」ことにしか集中できないのです。

 

けれども、依存症の人が抱える心理は決して特別なわけでもなく、

誰もが抱えているような不安感や虚無感が処理されず行き場を失い大きく大きく膨らんでしまったような感じだと思います。

不安感や虚無感が目の前に大きくあれば、今しか考えられなくなるのが普通です。

 

依存症ではない人だって、強い人間だって、生きていれば何らかの葛藤を持っています。

多くの人が、社会と自分との間にズレを感じたり不安に思ったり、大きな虚無感を抱く時があって当然だと思っています。

 

依存症の人に投げかける言葉として、

「自分のことばかり考えないで家族のこと考えろよ」「調子乗って今まで好き勝手やってきたから改めろ」「病院へ行けよ」

そう言うのは簡単だけど、

 

じゃあ、そう言う貴方は、

自分のことばかり考えないで家族のことを思っているの?

好き勝手やらないような調子になんてのらない大人しい良い子ちゃんだったの?

本当に貴方はノーマルな人間なの?

そう聞いたら、正々堂々とイエスって答えられる人って少ないんじゃないでしょうか。

 

多くの人が依存症に陥るほど弱くないかもしれないけど、

多くの人が自分に自信なんかなくて、実はアブノーマルなのにノーマルぶっていて、自分を押し殺すように生きていて、

そんな一触即発感のある危うさを抱えているような人が多い、

今ってそんな社会のような気がしています。

 

まとまらないブログになりましたが、興味を持って読んで頂きありがとうございます。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。



ギャンブル依存症と過食症という依存症

大谷翔平選手の元専属通訳の水原一平さんが「自分はギャンブル依存症だ」とカミングアウトした件についてです。

 

様々な疑惑や騒動は置いておいて

 

水原一平さんとは住む世界が全く異なる接点のない自分ではありますが、

過食症という依存症」だった自分と、過去形ではありますが「依存症」という共通点があり、

自分の思うところを述べさせて頂きたいと思います。

 

先ず、この方も「弱い人」「人生は葛藤だらけ」で相当に苦しかっただったんだろうなと思いました。

 

私たちは常に「何かに依存して生きている」と言われています。

 

子どもが親に依存しなければ生きていけないように、人間ひとりで生きていくことは難しく、何かにもたれかかって生きていくことが自然でもあります。

 

親や配偶者への依存

仕事への依存

宗教への依存

SNSへの依存

 

どこまでが正常な依存で、どこからが異常性のある依存かは、恐らくは「依存する度合い」「依存する強度」で決まるのでしょう。

 

依存症の「依存」の意味をgoo辞典で調べてみると、

『他に頼って存在、または生活すること』と説明されていますので、

 

「他に頼っていないと存在できない、生活できない」という解釈もできるかなと思います。

 

私は過去、過食症という依存症でした。

過食症歴は20年以上になるので、ちょっとハマっちゃったという程度ではありません。ガチの依存症だったと理解しています。

 

過食症を依存という意味に当てはめて、

「過食に頼って存在、または生活すること」

「過食に頼っていないと存在できない、生活できないとい」

と説明すると、

過食症の状態をとても的確に表しているなと思います。

 

依存症はハマったら最後、いわゆる沼なので

それこそズブズブになってそこから出られなくなります。

 

「快楽」を貪るので、その見返りとして「苦痛」がフィードバックするように、

「快楽」と「苦痛」は常に連動し同居しています。

 

どこまでも快楽を求め、必ず苦痛はついて回り、抜け出せない負のループが自身に延々とつきまとい、その負のループを自身も強く感じます。

 

「身体を痛め、心が壊れ、生活や人間関係が破綻する」

そんな正常を逸脱した強度の強い依存が「依存症」であり、

また、そんな現実が襲いかかろうとも「やめられないのが依存症」であり「依存症の恐怖」であります。

 

私は過食症で健康を害しました。

「食べたい」という欲が湧き上がれば、一度も打ち勝つことなどできませんでした。

食べて快楽を得ては、嘔吐して苦痛を味わいます。

自分を卑しく汚く思い自己嫌悪に陥り、また過食に救いを求めるような悪循環の日々が確かにありました。

人間の生きる自然の営みに反しての嘔吐はもちろん、

大量に食べることだけでも、想像以上に身体を酷使します。

 

大量に食べ物が取り込まれれば、大量の食べ物を消化吸収するために、それだけ多くの消化液や消化酵素、消化管ホルモンが働くことになり、消化器系への負担は相当なものです。

負担が負担を呼び、身体へも負のループが波及していきます。

 

ギャンブル依存症は、

身体を酷使することはないので健康を害することはないかもしれませんが、

「生活を破綻させる危険」があります。

 

賭けて得る快楽と、賭けて失う苦痛が同居している負のループによって、

いつの間にか大金を失うばかりか、犯罪まがいなことに手を染め、社会的立場を失い、愛する家族や友人を失うことになりかねません。

 

私はギャンブルをしないので、過食症という自分の依存症経験と照らし合わせてになるのですが、

 

依存症に陥ってしまう「要」とも言える「快楽と苦痛の同居」は、人間が生きていく中で、何とも言えない中毒性で、危うさのある好バランスを含んでいると思っています。

 

例えば、

ちょっと前で言うツンデレがそのギャップにキュンとするのも

帰宅後のビールを美味しく飲みたいがために仕事を頑張るのも

これらはもちろん依存症ではありませんが、

その落胆や苦痛の後の喜びに中毒性を含むため人を虜にさせるのでしょう。

 

依存症に陥ると、

快楽欲しさに苦痛に耐える

快楽に溺れたいがために苦痛を欲する

苦痛さえも快楽になる

 

そんなちょっと異常に感じる、過剰に感じるような表裏一体する中毒性を欲するようになり、

例えば、

ツンデレのギャップ萌えがDVによる共依存へと、仕事のストレス解消がアルコール依存へと行き過ぎてしまいます。

 

快楽を得たいという気持ちが先行し、後の苦痛など都合よく思考外に追いやられ、後の苦痛などなんとかなるように思えたり、後の苦痛が分かっていても快楽を求めるようになります。

また、激しい苦痛を感じれば、その痛みをカバーするようにさらに大きな快楽を求めるようにもなります。

しかし、どうしたって苦痛からは逃げられず必ず現実としてやってきます。

 

依存症の人は苦痛を感じないわけでもなく、どうでもいいと感じているわけではありません。ちゃんと苦痛を与えられ苦しいけど、逃れられないのです。

 

これらの行為は、端から見たら異常で病的だと感じるけれども、

依存症の人の中では「絶妙なバランスで成り立っています」。

 

快楽と苦痛とそれら2つを得られる依存対象があることで、

「生きていられる」「社会生活を営んでいられる」「人と関わっていられる」のです。

 

依存対象は、まさに、

「自分がこの世界でこの社会で生きるための武器」「自分を敵から防御するための鎧」になっています。

 

ここが、依存症の「複雑さ」だと私は思っています。

 

簡単に言ってしまえば「弱い」のです。

 

「裸の自分ではこの社会で生きていけない」と思っているので、依存対象を纏ってベールとして「社会と対峙」しています。

 

鎧は頑丈だからちょっとやそっとぶつかるくらいじゃ破壊されません。

ベールで隔たれていればコロナ禍の時のパーティションのように安心できます。

 

頑丈で安心できれば、生きていけないと思っている社会へも強気で出ていくことができます。

けれども、強気で行けば行くほど、社会からの要求も当然強くなり、壁も現れます。

 

そこで、その要求に応じなければいけない、壁を乗り越えるだけのもっと頑丈な鎧が必要となり、もっと密度あるベールを欲し、依存対象への依存はより激しくなります。

 

より強い快楽を求めるようになり(ギャンブル依存症であれば高額を賭ける)

その振り幅ぶんのより強い苦痛(大きな損失)を味わうようになります。

 

そして、これらは表裏一体、快楽は止まず苦痛はフィードバックするので、グルグルと負のループは終わりを知りません。

そして、ついには身体を痛め、心が壊れ、生活や人間関係が破綻するまでに至ります。

 

水原一平さんは大谷翔平選手の専属通訳として高額な報酬を得ていたと思われますが、恐らくそれをもっと大きくしようというビッグドリームを描いてギャンブルをしたわけではないでしょう。

 

「お金を持つと人間変わるよね」というのも一理あるとは思います、それだけ気が大きくなりますから。

しかし、

「何かに依存しないと社会と対峙できない彼の弱さ」が、ギャンブル依存症を招いた主犯だと思っています。

そこに、多額のお金を持っている持っていないは関係ないのです。

 

順風満帆に見えて、社会での自分の在り方や演出方法に迷い込んでしまったんだろうと私は思っています。

 

過食症も、アルコール依存症も、薬物依存症も、買い物依存症も、宗教への過度な依存も、

現象は違えど依存症というカテゴリーは同じような心理状態にあると思っています。

身体を痛め、心が壊れ、生活や人間関係が破綻するため、適切な介入が必要な病気でもあるのでしょう。

 

私は今でこそ過食症を克服していますが、ここまで来るのに、いろいろな人に迷惑をかけ、いろいろな人に助けてもらいました。

しっかり医療機関にお世話になったわけではないけど、お世話になったことはその後の生活に活かされたと思っています。

 

最終的に依存症を治せるのは自分です。

医療機関にお世話になろうとも、いくら名医に出会おうとも、名医が依存症を治してくれるわけではありません。

闘うのは自分です。

 

治療は長期戦です。

自分の弱さとじっくり向き合い、鎧やベールを外して生きていけることを学ぶには、たっぷりと時間が必要です。

 

「人生落ちるところまで落ちれば、後は這い上がるのみ」とはよく聞くことです。

多くのものを失って知り得ることや残ったものは紛いのない真実で、それを大切に握りしめていけば必ず光は差すと思っています。

例外なく、水原一平さんもその通りだと思っています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

拒食症の方の社会復帰を考える

一切の食べ物を食べない(食べられない)

もしくは

特定の食べ物しか食べない(食べられない)

それが拒食症です。

 

入院レベルで血色の悪い飢餓状態の拒食症の方でない限り、その痩せ細った痛々しい身体でも堂々と社会に入り込んでいることが多いかもしれません。

 

見るのが申し訳ないくらいか、逆に2度見3度見してしまうような細い女性を、学校や外出先で見たことがある人は案外いるのではないでしょうか?

 

そんな他人からは明らかに病的で病院に行った方がいいですよと言いたくなるくらい危なっかしく見える人が、

普通に学校に通って、普通に会社に行けるのは、

 

「自分が極端に痩せすぎている」「自分は何だかおかしい」という認識がないためか、

「群を抜いて痩せている自分」を誇らしげに感じているためで、

 

「病的意識が欠如している」そして「ボディーイメージが歪んでいる」ために、

「命を失う危険がある」という意味では、

拒食症は過食症より深刻です。

 

私は高校時代拒食症となり、その後長く過食症となり、40代にしてようやく摂食障害を克服できました。

 

そんな拒食症の経験から、

「拒食症の方が社会に地に足着けて生きていくため」「拒食症の方が社会復帰するため」

必要だと思うことを考えてみました。

あくまでも、私の経験から考えた3項目になります。

 

「自分は拒食症という病気だ」と認識し、その現実に目を背けず向き合っていく

信頼できる人に支えてもらう、諭してもらう

過食症に転じてしまう

 

では、1つずつ説明していきます。

 

「自分は拒食症という病気だ」と認識し、その現実に目を背けず向き合っていく

 

先述したように、

拒食症の方は「自分は極端に痩せている」「自分はおかしいようだ」という認識が欠如していることが多いので、自分が病気だなんて思いませんし、

 

適切な保護下に置かれていない人は拒食症として入院するタイミングを通り越して、

拒食症による低栄養を原因とした疾患や感染症などでようやく入院できたというケースもあると思います。

 

私の周囲には拒食症で命を失った方はいませんが、

カーペンターズのカレンさんは拒食症で亡くなった方として有名ですし、

以前ブログでも書きましたが、大食いタレントの高橋ちなりさんも、本当のところも詳細もわかりませんが、ネットニュースによると拒食症でお亡くなりになったとされています。

sayosalada.hatenablog.com

お二人とも、自分は拒食症だという認識を持ち合わせていたかもしれませんが、

なぜ、お亡くなりになってしまったのか。

 

入院までいけば点滴治療され、命は救われるように感じますが、

恐らく多くの病気と同様に、

治療により血液検査などの異常を示す数値が改善すれば、病院での処置はなくなったということで退院できます。

拒食症の場合、この医療的処置がひとまず済んだ退院後が、問題になるんじゃないかと思っています。

 

拒食症で入院して治療したのは消耗した身体への栄養補給が主体です。

精神科ならば、薬物治療なども併用していくでしょうが、(拒食症だけの問題にもとどまらず、パーソナリティ的疾患を抱えていることもあります)

 

結局、食べない、もしくは特定の食べ物しか口にしない「拒食症の原因」を分かっていないため、たいてい退院後には拒食生活が再開されます。

 

点滴治療で太ってしまった醜い身体(実際は太っても醜くなってもいません。本人は強くそう感じるだけです)を一刻でも早く何とかしないといけないと、拒食する意識はより高まることでしょう。

そうなると、本人と病院のいたちごっこで、入退院を繰り返す拒食症患者さんは多いのではないでしょうか?

 

「自分は拒食症という病気だ」という認識を持てるか持てないかは、第1前提として重要なことですが、

 

「自分は拒食症という病気だ」という現実に目を背けず向き合っていくことは、生きるか死ぬかという明暗を分けるほど、より重要なことになります。

それには、「拒食症の原因」を知ることが必要になってきます。(②で説明します)

 

信頼できる人に支えてもらう、諭してもらう

 

「自分は拒食症という病気だ」という認識を持つことができたら、その現実に目を背けず向き合っていく努力をしなければいけません。

 

この努力は自分が「拒食症になった原因」と向き合っていくことになるので、「道は険しく長期戦」となります。

その険しい道を行くために、「支えてくれる人」と「道しるべとなる人」が必要となります。

 

拒食症になると痩せることが自分の全てなので、痩せることを妨げるものは一切自分から排除して、自分が痩せることに全力投球できる世界を作り上げようとします。

 

私は高校時代拒食症でしたが、

子どもが痩せたことに気が付かない親に、

友人や彼氏がいないことが幸いし、食事に誘われる、学校でお菓子を食べるといったダイエットを妨げられる煩わしさがなく、

自分を取り巻く世界は、痩せることを邪魔するものがいない「完璧でそして孤独な世界」でした。

 

「孤独だったから拒食症になった」のか、

「拒食症になったから孤独が加速した」のか、

恐らくどちらもだと思いますが、

 

拒食症は

痩せるために「不必要だと思う食べ物を拒絶」し、

痩せるために「不必要だと思う周囲の人間までも拒絶しようとする」

孤独な世界に在りますが、

 

本当のところ「拒絶するのは自分の身体に付いた贅肉」ではなく、

 

「環境に溶け込めず人間関係に苦痛を感じている自分自身」で、

「自分を劣等感に至らしめる人間関係から離脱できない自分自身」で、

「社会での自分の在り方や生き方に迷い、八方塞がりに陥り苦悩している自分自身」です。

 

これが、①で述べた「拒食症の原因」の最も本質的な部分です。

 

自分自身を拒絶する究極は「自分を亡くすこと」です。

いや、そこまでいかないよね?と極端に感じるかもしれませんが、

拒食症の方の心理は大なり小なりそんな感じです。

 

拒食症の方は自分自身や周囲への拒絶があるので、心療内科やカウンセリングなど、医療機関に支えられることは適切な策だと思っています。

 

医療従事者との関わりを通して社会との接点を広げることになり(居場所ができる)、

医療機関と繋がっていれば、命を失うリスクは多少なりとも低下するという意味でもメリットがあるように思います。

 

しかし、

私が出会ってきた過食症さんで、医療機関へ受診している人は1人もいませんでした。過食症になって医療機関にお世話になったのは、私だけでした。

それだけ、医療機関への受診はハードルが高いのか、信用していないのか、金銭的問題もあるのだと思います。

 

医療は信じられない、お世話になってみたけど行きたくない、金銭的に余裕がないという人は、

拒食症の自分を受け止め、諭してくれる信頼できる人と出会えるよう「行動してみる」ことを勧めます。

 

摂食障害自助グループなども、先をゆく仲間に出会うことができ、支えになるかもしれません。私も自助グループに参加して、ひたむきに生きる女性と出会い刺激を受けました。

 

拒食症の方は「より孤独な環境へと陥らないよう」に気を付けて欲しいです。

 

過食症に転じてしまう

 

拒食症から抜け出し、社会で生きていくためには、過食症という次のステップに進むことが1番手っ取り早いかもしれません。

 

「痩せたいのに食べてしまう制御が効かない行動」が、「どうやら自分はおかしいようだ」と気付きを与えてくれます。

 

一切の食べ物を食べない(食べられない)、

もしくは、

特定の食べ物しか食べない(食べられない)

それが拒食症ですが、

 

そんな拒食期を経ると、

 

渇望した身体が自らの栄養を求めて「V字回復」を図ろうと食欲をマックスにさせるので、

多くの場合、大量に食べる「過食症」に転じます。

 

これは身体の自然なメカニズムで、いわゆる「リバウンド」と言われる現象ですが、

風邪を引いて数日食べられなかった、朝食を抜いた時にも少なからず引き起こされている現象だと言われています。

 

そのため、「身体の自然なメカニズム」として、多くの場合、拒食症は大量に食べる過食症に転じます。「そうならない方がおかしい」くらいです。

 

過食症は自分の意思とは裏腹に、「食べたくないのに食べて太ってしまう」「食べては嘔吐する罪悪感」から鬱状態に陥り、死にたくなるような絶望感を抱き、

 

現実的なところでは金銭面への不安が襲い、

自分が崩壊していくような苦しみから、

「自分自身と向き合わざるを得ない」ように動かされ、「摂食障害克服へ歩み出す」ことができます。

 

ここで、①へつながり、現実に目を背けず向き合っていくようになり、

信頼できる人の支えを必要として、②へとつながるようになるでしょう。

 

この拒食症から過食症への移行は、「摂食障害を克服するための必要なステップ」です。

 

「これまでは拒絶して口にしていなかった食べ物」を、後に嘔吐して吐き出すにしても、

「一度自分自身に取り入れるようになった」ことを考えれば、

いかに大きなステップかが分かると思います。

 

拒食症という痩せることに矛盾なく生きていられる時期は、学校や職場など社会とつながっていられたとしても、その社会は「痩せることのみで構成された狭い空間」です。

 

自分自身も周囲も拒絶しているので、当然視野は狭くなり、足場はつま先立ちをするように狭いので、少しのバランスで離脱してしまいます。

 

しかし、

離脱しても全く持って問題なく、むしろこれが「足場を広げるチャンス」になります。

 

拒食症の方が、社会に地に足着けて生きていくため、社会復帰するためには「自分の社会的環境を広げていくこと」が必要だと思っています。

 

拒食症という自分自身を受け入れ、信頼できる人を受け入れ、

「痩せることへの執着」を少しずつ少しずつ解きほぐすことができれば、自分の視野が広がります。

 

痩せることのみで構成された狭い空間で生きていることが、なんて窮屈なんだと、なんて勿体ないんだと実感できれば、

生きるフィールドを広げ、「自由な社会空間を必ず手に入れることができます」。

 

ただし、「長期戦となる覚悟」はしておいてください。

 

以上、

あくまでも私の経験から考えた

「拒食症の方が社会に地に足着けて生きていくため」「拒食症の方が社会復帰するため」

必要だと思うことになります。

 

拒食症は過食症よりもより繊細で、

社会を足場とすることや社会復帰という点でも過食症よりも複雑なので、

伝えにくく難しくて分かりやすく書けなかったな、という自分なりの感想ですが、

 

多様性ということから、障害を持つ方の社会参加へのフォローが進んでいる中で、

まだまだこれから試行錯誤される摂食障害の方の社会参加や社会復帰を考え、参考になればと書いてみました。

 

摂食障害の方の社会参加が進む社会になるといいなと心から思っています。

 

前回のブログには過食症の方の社会復帰を書いています。

sayosalada.hatenablog.com

今回も読んで頂きありがとうございました。

過食症の方の社会復帰を考える

私は高校2年生の時に拒食症になりました。

 

ダイエットから生理がなくなり、黄疸が出るほど肝機能が悪くなっても、痩せようとすることをやめられませんでした。

 

何度かブログでも書いていますが、拒食症にある時は、痩せるという自分の思いに矛盾なく真っ直ぐに生きていられるので、なんだかんだあっても気持ちは前向きでいられます。

 

見るに堪えないほどの棒のような脚を堂々と披露している女性を時々見かけますが、

拒食症の時はまだまだ痩せる必要はあるけど、着実に私は痩せていると自分に酔いしれる時なので、活動的に動けたりもします。

 

しかし、

過食症ともなると、痩せるという自分の思いとは裏腹に、禁断の食べ物を大量に食べてしまうという現象に襲われるので、

 

それまでは痩せるという自分の思いに矛盾なく遂行されてきたはずの自分のネジが外れ、

思いと行動が矛盾しているコントロールできない自分に、軽いパニックを起こし気持ちは前向きでいられなくなります。

 

どうやら自分はおかしいようだと気が付き、摂食障害に向き合っていくことを促されていくのはこの過食症にある時ですが、

 

コントロールが効かない自分に疲れ、自信を失い、「社会生活に支障をきたす」のもこの時ではないかと思っています。

 

私は、摂食障害を克服するためには「社会とのつながりが最も大切」だと思っています。

 

摂食障害さんはそのままの自分では自分に自信が持てないので、

「そのままの自分で生きていける」という「強さ」を身につけなくてはいけません。

そのためには、「自分を評価してもらい自分への自信や信頼を獲得していく必要がある」のですが、それらを獲得する場が「社会」なのです。

 

摂食障害が病気だとすれば、

社会は「特効薬」、社会が「治療の場」だということです。

 

今回は、拒食症・過食症という摂食障害の2パターンの中でも、

過食症の方が社会とつながっていく方法」「過食症の方が社会復帰する方法」を私なりに考えてみたいと思います。

 

方法は以下の4項目です。

  • 生活習慣を乱さない
  • 過食症の克服を支援してくれる信頼できる人を見つける
  • 社会で生きていく自信がなくなった時は一旦フェードアウトしてもいい
  • 母親との関係を見直す・場合によっては切り離す

では、1つずつ説明していきます。

 

生活習慣を乱さない

 

「規則正しい生活習慣が理想」です。

朝早く起きて、夜は早めに寝る。

大量に食べて嘔吐するという過食症に飲み込まれないようにして、

過食をしてしまっても「その他の生活は守られるように」します。

 

過食が頻回な場合は、もう「過食をルーティーンとして生活に組み込んでスケジューリングする」と良いように思います。

過食を前提とするなんてと思われるかもしれませんが、生活が乱れて学校や仕事へ行くモチベーションが下がる方がよくありません。ここは割り切っていいところです。

 

私は夜中に過食嘔吐した翌日、毎回最悪な気持ちで学校や仕事に行っていました。やる気なんてあったもんじゃなかったです。

嘔吐しても下剤を飲んで下からも出さないと気がすまないので、翌日は昼頃からトイレに頻回に通うことになり、逆に下剤が効かなくて、翌日に更に増量して飲んだりしたものでした。

 

そうは言っても過食スイッチは突然襲ってくるのでね、そのスイッチは過食しない限りオフにできないのは分かるので、過食した後はできるだけ「元の習慣に戻すように」整えて下さい。

 

過食症の克服を支援してくれる信頼できる人を見つける

 

自分が抱えている摂食障害について打ち明けられ「理解」を示してくれ、「過食症の克服を支援してくれる人」を見つけます。

医者でも親でもパートナーでも恋人でも友人でも信頼できる人とともに「過食症の克服」のために悩みます。

 

私は拒食症から過食症に転じてしまった時、壊れてしまったように感じた自分を誰に打ち明けたかというと、看護学校に通っていた時の社会福祉の外部講師の先生でした。

 

先生が授業で、過去拒食症と過食症だったとカミングアウトしたので、この人だったら理解してくれると打ち明けました。

 

過食症の克服に向けて指南してくれる人がいると、「自分を知る近道になる」と思います。

私は社会福祉の先生から、摂食障害を治すためには、まず自分自身が摂食障害について学ぶ必要があることだと教えてもらい、そこから摂食障害と向き合う人生が始まりました。

 

信頼できる人が探せない時は、経験者である私に相談してみて下さい。

 

社会で生きていく自信がなくなった時は一旦フェードアウトしてもいい

 

常に社会という最前線で頑張る必要はないんです。

もうダメだと感じたら、避難しても良いじゃないですか。

時間をかけて調子を整えてから「ゆっくり再始動」すれば良いだけです。

 

私は看護学校を中退して社会との接点、自分の所属先を失ってから、この先どう生きていけばいいか分からなくなり、それはもう過食嘔吐が酷くなりました。

 

過食嘔吐が酷くなると自信もやる気もみるみる削がれるので、その状態では最前線で社会に出るタイミングではないと思っています。

 

看護学校を中退して宙ぶらりんで、その後2〜3年間ほどアルバイト生活をしていました。

このアルバイト生活を経て、私は栄養士になるという目標を持って短大へ入り卒業して、ようやく就職することができました。

 

アルバイト生活は、社会へ向かって再始動する良い「準備段階」だったと今は思っています。

「慣らし期間」のような。

面積は狭いくて立ちにくいけど、とりあえずの「立ち位置作り」のような。

 

アルバイトという比較的責務のないポジションで、働き方も融通がきくことは、社会に対して自信を失っている摂食障害さんには、「入口」として適している気がします。

 

イヤイヤ看護学校へ通っていた時も過食症が酷くて、やりたくないことをやっているから過食症が酷くなるんだと思い込んでいたのですが、

所属先を失ってもその不安や焦りから過食症は酷くなり、

イヤイヤ看護学校へ通っていたストレスが無くなったのに、どうして過食症がちっとも治らないんだと大きな誤算を抱えたような気持になりました。

 

過食症は、例えやりたいことをやっていたって、自分が変わらない限り付いて回ります。」

 

だからというわけではないけれど、社会という自分が変わる、強くなるチャンスを与えてくれる場は必要なのです。

 

母親との関係を見直す・場合によっては切り離す

 

多くの専門家が摂食障害と母子関係は関与すると述べています。

母親から愛情をもらえずに育った、母親に溺愛され育ったなど、摂食障害になる要因があるようです。

 

何を持って母親から愛情をもらえなかったか?

何を持って母親に溺愛されたのか?

これは「本人の主観」からしか図れないので、母子関係が摂食障害に影響する場合、「本人の主観が全て」ということになります。

 

つまり、

他の人からしたら、母親から愛情をしっかり与えてもらい愛情不足とは思えなくても、

摂食障害になった「本人からしたら愛情不足に感じた、もっと愛してもらいたかった」ということになります。

 

母親という絶対的な存在から、

「自分は愛されているという安心感」や、「自分は愛されるに値する存在だという自己肯定感」が適切に与えられなかった、感じられなかったことで、

「そのままの自分では自分に自信が持てない」

という思いを抱くことは、

その後、摂食障害に陥りやすい資質をつくることにはなるでしょう。

 

母親との関係に不満や不調和を抱いている場合は、できるだけその思い(愛してもらいたかった、束縛されて苦しかったなど)を母親に直接伝え、そこから「新たに母子関係を構築していく」ことが良いと思いますが、

これは「理解を示してくれる親に限って」のことで、

 

理解を示さない親に自分の思いを伝えたところで無意味どころかやっぱりかと落胆して、傷が深まるだけなので「絶対に避けるべき」だと思っています。

 

理解を示さない親には、「期待をしない」。

「自分の人生から切り離す覚悟が必要」だと思っています。

 

いつまでも過去を背負っていては、その重みで前に進めません。

 

過去を切り離したいと願うだけでは、自分がずっと抱えてきた寂しさと痛みを切り離すことはできません。

 

過去を切り離すためには、

「自分はここで生きていくという居場所づくり」と、

「自分にはこの人がいるから大丈夫という信頼できる人に支えてもらう」ことが有効です。

これらは項目②③につながることです。

 

摂食障害だった友人は、母親を恨みながらも愛していたいという思いが混在して悩んでいました。母親と離れたいあまり高校卒業と同時に東北から神奈川県の学校に進学し、信頼できる彼氏と看護師という仕事を通して自分の居場所をつくりました。

母親から連絡があるたびに鬱々として複雑な気持ちになるようでしたが、

信頼できるパートナーと懸命になれる居場所ができたことで、「過去に引っ張られずに現在を生きることができる」ので、

時間が経てば「愛すべき可哀想な人」という心境を持って、母親と対峙できる日が来るんだろうと思いました。

 

「自分にとって心をざわつかせるもの」「危険だと感じるもの」には近付かないのがベストだと思っています。

 

以上

過食症の方が社会とつながっていく方法」「過食症の方が社会復帰する方法」を私なりに考えてみた4項目でした。

誰かの参考になれば幸いです。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。