「痩せている=美しい」ではないと思った経験

若年層でも中高年層でも、「痩せていることは美の基準の重要なひとつ」だと認識されています。

 

しかし、痩せていて美しいと感じるのも程度問題だということも、私たちは認識しています。

 

スラリとした手足は美しいと感じますが、関節が際立ちガリガリの手足と表現されるようでは、痛々しくて美しさは感じられません。

 

芸能人やモデルさんが痩せていて美しいのは、痩せていても健康だからだと思ったことはありますか?

 

彼女たちは恵まれた美貌とスタイルを、努力して磨いて保っています。

中には無理な食事制限をしてストレスがたまった、拒食症になったというエピソードも聞きますが、

多くの方が、ストイックに自己管理して美を保っていると感じています。

 

美しいスタイルは痩せているだけでは獲得できません。程よい、もしくはそれ以上の筋肉があってこそ、美しいスタイルは保たれます。

 

また、美しい肌艶は内側から生まれるものです血液が毛細血管の隅々までよく行き渡っているから、血色が良く明るい肌と、リンパの流れが良いから浮腫みなく、美しい顎から首肩ラインが出来上がるんだろうと思っています。(エステやマッサージの効果もあると思いますが。)

 

というのも、

私は痩せているだけで筋肉が少ないために、上半身が削げたような印象です。

年齢的なものもありますが、拒食症時期に極端な食事制限をしたことが筋肉を失った大きな原因だと思っていて、

 

「痩せている=美しい」という認識は間違っていると感じています。

 

また、私は血液の巡りが悪くて冷え性です。

これも、極端な食事制限で皮下脂肪とともに筋肉が落ちたことが原因だと思っています。

そのため、年齢的なものもありますが、どこか顔色が悪いような気がしています。

 

妊娠していた頃、イエベの自分の肌色がワントーン明るくなったのを覚えています。

赤ちゃんに栄養を与えるために、循環血液量が増して血液の巡りも良くなっていたからなんだと、振り返っています。

過食嘔吐していたけど、当時の私の身体はまだ若かったので、赤ちゃんを産むために頑張りが効いたのだと思っています。

 

そんなことを考えていると、

多くの人が抱く「痩せて綺麗になりたい」という願望

「痩せている=美しい」

という公式は間違っていて、

 

「健康=美しい」

という公式が正しいんじゃないかなと思っています。

 

当たり前すぎるものに価値を見いだせないように、健康が当然で当たり前だと「健康=美しい」という公式が導き出せません。

 

地震などの天災に遭って、何でもない日常の有り難みを痛感するように、

健康を失ったり、失うような危機に陥らないと、健康の有り難みを感じられないから、

「健康=美しい」ことの理解は難しいのでしょう。

 

ことさら、若い頃は健康であることが当たり前です。回復力も抜群です。

「健康=美しい」と理解できるのは、ずっと先になるのもまた、当たり前なのでしょう。

 

私だってそうでした。

生理が来なくたって全然構わなくて、妊娠できなくなるリスクを説かれたところで、

先のことで彼氏もいないし想像もできないことで、

そんな先のことよりも大切なのは痩せることでした。

 

なので、

私が「健康=美しい」と理解したのも40代になった今やっとのことで、

拒食症、過食嘔吐を長年経験して「痩せている=美しい」という価値観で生きて、行き着いた「結果」の話です。

 

でもだからこそ、

どっかの誰かが言ってたこと、書いてたことを写しとったものでもごく一般論でもなくて、

「リアルな体験からの嘘のない話」なんです。

 

「健康=美しい」を認識できない人が多いから、

これ一杯で痩せられるドリンクとか、痩せる酵素サプリとか、手っ取り早さを求めて、そんな商売が絶えないのだと思っています。

 

胡散臭い商品だと思うけど行動が伴わず、つい手を出していまうのが痩せたい気持ちで、ダイエットの落とし穴だったりもします。

 

「痩せている=美しい」の公式だけ丸覚えして、応用問題でそれを活用できないようなもんです。

 

実際問題を解いていくと、「痩せている」の中には、脂肪を燃焼させる有酸素運動の他、無酸素運動である筋トレがあって、程よく筋肉を保てるような食事が必須なはずです。

そして、これら美しさは時間をかけて積み上げて作っていくものです。

 

今も昔も、痩せていることが良しみたいな風潮があるし、「健康(ヘルシー)=痩せている」みたいな公式も存在していると感じています。

でもこれ、決してイコールではありませんよね。

 

ヘルシー食品と明記されていれば売り上げは上がるようですし、企業にとっては有り難い効果ですが、痩せる必要のない人までヘルシー食品を買い求めるわけです。

(実際本当にヘルシーかの見極めをして買った方がいいと感じる商品ものも多いと感じています。)

 

先程も書いたように、

恥ずかしながら、摂食障害のブログを書き始めた当初、

私自身「痩せている=美しい」という公式まではいかずとも、「痩せていることが美しい」という固定概念をまだ持ち合わせていました。

 

しかし、

ブログを書きながら考えたり、

自分がしてきた拒食症と過食嘔吐が与えた身体へのダメージを感じるたびに、

「痩せていることが美しい」という固定概念が覆されていきました。

 

私は、ブログで過食嘔吐はいつかは必ず止められると書いています。

それは、歳をとれば消化機能も低下して過食に絶えられる胃腸でいられなくなることと、

嘔吐する体力もなくなるためです。

 

若い時には全然平気だったことができなくなってくることが「歳をとる」ということで、

若い時にしたことが跳ね返ってくることもまた、「歳をとる」ということなんだと理解しました。

 

私が過食嘔吐を止めるキッカケになった上腹部の良性腫瘍も、若い時から積み上げた嘔吐の際の腹部圧迫がもたらしたもので、

頑固な首コリ肩コリも17年間嘔吐し続けたことが大きな原因で、

血流悪く冷え性なのも拒食症がもたらしたもので、

逆流性食道炎も嘔吐し続けたことが原因です。

 

「過去積み上げたものが今になる」ということを、自分の身体が良く現しているなと感じています。

 

悪意も何の打算もなく、ただ痩せただけ、食べて吐くことをどうしてもやめられなかったことによって、

こういう何とも言えない苦い思いをする人が、少なくなってほしいなと思っています。

 

摂食障害で悩んでいる人が、このブログを読んだとしても、何のストッパーにもならないのは分かっています。

 

渦中にあって、先の健康なんて考えられず、むしろ早く死にたいと思っていて、

今は痩せることしか考えられない、

食べたくないのに食べるしかできない、

食べたくないのに食べて吐くしかできないなら、

 

私はそういう時期なんだと、その気持ちに任せて良いと思っています。

 

ただ、そういう時期にしてほしいことがあります。

 

痩せることしか考えられなくても、何故自分はそこまで痩せたいのかを考える時間を作ってほしい。

 

食べたくないのに食べることしかできなくても、何故自分は食べたくないのにそこまで食べなきゃいけないのかを考える時間を作ってほしい。

 

食べたくないのに食べて吐くしかできなくても、何故自分は食べたくないのにそこまで食べてしまうのか、そして、何故それを吐いてしまうのかを考える時間を作ってほしい。

 

「過去」積み上げたものが「今」になり、

「今」が「未来」に続くので、

「自分と向き合い続ける今の連続」は、必ず「摂食障害を克服する未来」に繋がります。

 

こんなこと、誰も教えてくれなかったけど、そうなんだと思います。

 

何事も結果が出るまでには時間がかかります。

勉強だって、評価や信頼、子育てもそうです。

 

若い頃の摂食障害がもたらした結果はなかなかヘビーですが、

この今の自分は「結果ではなく途中経過」と思えば、これからも前向きに生きられるような気がしています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

摂食障害後遺症の改善!〜首コリ肩コリと便秘対策〜

私は首コリと肩コリが酷いです。

 

誰か私の身体と入れ替わったとしたら、この重苦しい首と肩に驚くと思います。

 

記憶を辿ってみると、このコリは13年くらい前から続いていると思います。

 

ゴリゴリ鳴ります。微妙に痛いです。

職場で毎朝ラジオ体操をしますが、肩周りを動かすたびにゴリゴリ鳴るので「今日も凄いね」と言われます。

後ろを振り向く時や首を曲げると、頻繁にゴリッと鳴ります。

 

もう慣れてしまいましたが、意識してみると、筋が伸びきれずに引っ張られるような感じ、かろうじて伸びても筋がほぐれきっていないという感覚があります。

 

もちろん、ゴリゴリを治したいとあれこれと試しました。

ストレッチしたり、マッサージしてみたり、トリガーポイントのローラーを購入してコロコロしてみたり、整体に通ってみたり、鍼灸にも結構長く通ってみました。

けれども、全くもって変わりませんでした。

 

コリ13年の後半にもなると諦めに入り、慢性化しきったコリとともに不快感を持ちながら生きるようになりましたが、

 

このコリの改善に再びチャレンジしようと、ここ最近取り組み始めました。

金銭面に余裕なんてないので自己流です。

 

コリって「老廃物の蓄積が原因で収縮した筋肉」なんだそうです。

 

血流が滞って老廃物が溜まった状態を解決すべく、血流を促すように手で凝った部分をほぐしたり、マッサージしています。トリガーポイントのローラーも再び出番となりました。

 

取り組んでまだ3週間ほどしか経っていないのですが、13年間手応えのなかったコリが少しずつ軽減している実感があるのです。

 

自分の勝手な考察なのですが、

この首と肩のコリは「過食嘔吐が原因」のような気がしています。

要は「摂食障害の後遺症」です。

 

嘔吐って凄く疲労します。

ノロウイルス感染やお腹の風邪などで、おえってやる時に力んで疲れた経験がある人も多いと思います。

嘔吐する際の力みは、首や肩周りの筋肉をとても緊張させます。

 

上から下に流れる自然のしくみに逆行し、下から上へと押し上げるには、どうしたって負荷がかかりエネルギーを消耗します。

 

私は嘔吐がヘタだったので、過食したものをある程度まで吐き出すのに、何度嘔吐を繰り返したのか分からないほどでした。20回近く繰り返していたかもしれません。

 

週に2回過食したとして嘔吐が40回程度。

ひと月にすると160回程度。

 

それが17年間以上続けば、そりゃあ肩もゴリゴリに凝り固まってるわけだなと思います。お金を払って整体に行っても、鍼灸に通っても治らなかったのは当たり前でした。

 

筋肉の緊張を解消させ、老廃物が蓄積してゴリゴリに収縮した筋肉をほぐせるように血流を促さない限り、首コリ肩コリは治せない

 

つまり、

過食嘔吐を治さない限り、首コリ肩コリも治らない」という当たり前の結論でした。

 

過食を辞めて数年経ち、嘔吐することがなくなり、今は肩をむやみに緊張させることもなくなりました。

 

昨年は白湯生活に切り替えて(今も継続中)、

度重なる過食でダメージを受けた食道と胃が修復してきた実感があります。

(食道や胃が痛むと、放散痛として背中が痛んだりコリを感じたりします。)

 

過去13年間何をしても効果が出なかったことが、今様々な条件が整ってきて、ちょっとずつだけど、良い方に傾いてきた感があるので、

今再びコリ改善に取り組む「良いタイミング」なのでしょうね。

何にでもタイミングがありますね。

 

効果がなく挑みっぱなしだった13年間、ひたすら時間とお金を注いできた13年間が全くもって無駄に感じてしまいますが、

 

寄り道ばかりというか、寄り道から戻る本道が未だに分からない自分の人生の縮小版だと思えば、この13年間も納得できることだななんて思っています。

 

今回のコリ解消はだいぶ手応えを感じているので、

 

「老廃物を溜めない」とか「血行促進」とか「血流を促す」とか、何ていうんでしょう

 

「昔から言われているような基本的な身体に良いこと」って、改めて大切だなと感じています。

 

最近、唾液の分泌を促すため早食いを改め、よく噛んで食べるようにしています。

 

「よく噛んで食べなさい」とも、昔からよく言われることですよね。

 

よく噛んで食べたいと思っていても、どうしても慌ただしく食べてしまう自分がいました。だって現代人って時間に追われるじゃないですか。

 

けれども意識を変えました。

年齢とともに減少する唾液の分泌を促すため、顎周りを鍛えるために、現代人の時間よりよく噛んで食べることを優先して、ようやく実践できました。

 

効果はすぐに現れました。

以前から便秘体質ではありませんが、よく噛むことを実行してからかなりスムーズに便が出るようになりました。

 

便秘の改善のためにと、食物繊維を取って運動もしているのになぜ出ないの?と悩んでいる人がいたら、「よく噛んで食べること」を実行してみてください。効果が出るかもしれません。

 

摂食障害で下剤の乱用で便秘体質になった方も、試されると良いかもしれません。

もちろん、便のもととなるような食事をしっかり摂っていることが前提です。

「しっかり食べる」も基本的なことですよね。

 

唾液は消化酵素なので、よく噛んで唾液を出すことによって食べ物の消化を促進する働きがあります。口の中である程度消化されれば、胃での消化に負担がかかりません。

 

口の中から肛門まで、消化管は一本の管なので、口の中で良く消化酵素を分泌させ、消化の準備運動をさせると、消化管全体の蠕動運動を促進させる効果もあるんじゃないかなと思っています。

 

よく噛んで食べるという基本的なことを置き去りにしてると、いくら野菜をもりもり食べても便秘解消に繋がらないと思いますね。

 

健康改善へと取り組む際に、効果が出ないなと感じる時には、基本的なことを見落としていないか見直すことは必要だなと感じている今日この頃です。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

「フードファイター小林尊さん」限界の先のホットドッグ

フードファイター小林尊さんが引退示唆か」という記事を読みました。

news.yahoo.co.jp

米動画配信大手ネットフリックスのドキュメンタリー番組で、食欲が感じられない悩みを抱えていると明らかにし、「健康で長く生活したい。このまま(早食いを)やめていってもいい」と語った。

 

複数の米メディアは、発言の英訳を基に「健康問題で引退を宣言した」と大きく報じた。

 

食事と健康の問題を取り上げた番組に出演した小林さんは、他の人が幸せそうに食事をする様子を見て「さみしい。その感覚が俺にはない」と食欲不振に陥っていることを打ち明けた。検査の結果、長年の早食いが脳の働きに影響している可能性を指摘され、引退を考え始めたもようだ。

 

20年以上におよぶ「競技生活」で約1万個のホットドッグを食べてきたという。その経験を生かし、「日本のヘルシーな食材と合わせて安全でおいしいホットドッグをつくりたい」と話した。

Yahoo!ニュースより

 

小林さんは今年46歳。

フードファイターを続けていくには限界でしょう。むしろよくこの年齢まで頑張られているなと感じます。

 

食べるということはエネルギーを使います。

意識にものぼりませんが、身体が弱っていたり病気の時などは、食べ物を口にして咀嚼してゴクンと嚥下することを繰り返すだけで疲労するのもです。

 

また、食べ物が体内に入ってからも、様々な化学反応が繰り返され、食べ物が最終産物になるまでにもエネルギーを使います。

 

これが、数十倍、数百倍の強度で繰り返されるのが、フードファイトや大食いです。

 

フードファイターはアスリート並みに過剰に身体を酷使するので、身体が酸化しやすい状態だといえます。

 

体内に取り入れた酸素の一部はさまざまな刺激を受け、ほかの分子と結びつくことで体内で「活性酸素」に変化します。 

 

この「活性酸素」は有害物質を除去する免疫機能として働く一方、

過度な肉体的・精神的ストレス、激しい運動、喫煙、紫外線、大気汚染などの影響を受けて過剰に増加すると、細胞を傷つけ、「身体の酸化」を引き起こします。

 

この活性酸素を抑制するために、ストレスを溜めない生活をしようとかいわれるわけですが、

 

アスリートにとって必要なトレーニングも、フードファイターにとって必要なトレーニングも、早食いや大食いそのものも、

本人にとってはストレスといった自覚はなく、ただ必要なことを一生懸命しているだけだけど、

とてつもないエネルギーを消費して、とてつもないエネルギーを必要とするため、

 

身体に与える負荷、ストレスからは逃れられず、その影響はどうしたって大きいということです。

 

喫煙する人にとって、喫煙はストレス解消という認識でも、身体にとってはストレス以外の何ものでもないということと似ていて、

 

過剰過ぎた場合それなりの犠牲は覚悟しなければいけないのでしょう。

 

私は長年過食症だったので、間違いなく過剰に身体にストレスを与えていました。

私にとって過食と嘔吐は生きるために必要で、ストレス解消の意味もあるなくてはならないものでしたが、

 

身体に負担を強いり、細胞を傷付け、血流を滞らせ、老廃物を溜めさせるものでした。

身体はボロボロ、それでも止められないのことに心も疲弊しました。

 

小林尊さんは食欲が感じられない悩みを抱え、それは長年の早食いが脳の働きに影響しているとのことですが、

 

これっていわゆる「摂食障害」だよなと思いました。

 

拒食症は食べない食べられないことで栄養が脳に行き渡らず、脳が萎縮すると言われています。

 

また、摂食障害のチューイング(食べ物を口に入れて咀嚼して飲み込まず吐き出す)は、食べ物を口にしたのに身体に栄養が入ってこないことで脳が混乱し、食欲中枢や自律神経に影響すると言われています。

 

拒食症や過食嘔吐やチューイング、フードファイトも意味合いは異なりますが、食べないことや食べることで「自分の心も身体も追い詰める作業」です。

 

世界の頂点、世界レベルを維持するために、自分を追い詰めて過酷なトレーニングをされてきた故の、大きな代償なのかもしれません。

 

小林尊さんのコメント

他の人が幸せそうに食事をする様子を見て「さみしい。その感覚が俺にはない」

 

この気持ち、すごく良く分かるんですよね。

 

いつも太る恐怖を抱えて、いつも過食スイッチが入りやしないか緊張しながら食事をしていた摂食障害当時、

普通に食べて、普通に美味しいと感じ、食べながら無邪気に笑っている人達が本当に羨ましかったことを思い出します。

 

食べ物を美味しいと感じられることは本当に幸せなことです。生きていると実感させる喜びです。

 

小林尊さんがストレスから身も心も解放され、余裕を取り戻せた時、

ある時ふっと沸き起こる食べたいという思い、美味しいという感情に、「生きている」と実感できるだろうと思います。

 

身体を追い詰めた人、大きな病気をした人でも、自分を大切にしようと改められず、何ひとつ生活を変えられない人はたくさんいます。

 

「健康で長く生活したい。」

「日本のヘルシーな食材と合わせて安全でおいしいホットドッグをつくりたい」

 

自分の命を削り、自分の限界と闘って見えてきたものがとてもシンプルなことに、「人間の原点」を感じます。

 

小林尊さんはこの先、自分も周囲も大切にしようというステージに入るのでしょうね。

 

安全で美味しいホットドッグ食べてみたいですね。

これからも頑張ってほしいなと思います。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

Perfumeあ~ちゃんの摂食障害疑惑について

Perfumeのあ~ちゃんが病的な痩せ方でファンは心配しているとの記事を読みました。

 

昨年10月にも私はこのようなあ~ちゃん摂食障害疑惑記事を読んで、あ~ちゃんは摂食障害ではないと思える自分なりの考えをブログに書きました。

sayosalada.hatenablog.com

あ~ちゃんに限らず、芸能人が痩せたり太ったりする話題が記事になりやすいのは、老若男女といってもいいくらいに痩せ思考の日本では仕方ないんでしょうか。それとも人の上げ下げを楽しむ人がたくさんいるからでしょうか。

 

私は未だ続くあ~ちゃんの摂食障害疑惑に関しても、あ~ちゃんは「シロ」。「摂食障害ではない」と思います。

 

グローバルに活躍している彼女達のバックには、相当に優秀な人材がたくさんいると思っています。

音楽もダンスも一流が付いているのなら、美の一流だって付いていると考えるのが自然です。

動画で一方通行に学ぶ私たちのやり方ではないんです。

 

マシーンピラティスの専属トレーナーがついて、食事も指導してもらいながら徹底して鍛え上げたんだと思います。

そりゃ、ビックリするくらい身体の厚みが薄くもなります。

 

人が持つ印象の影響って大きいですよね。

例えば、あ~ちゃんが今のダイエットしている体型でデビューしていたら、ほっそ!という印象を持ったとしても、誰もあ~ちゃんが摂食障害だと疑わないわけですよね。

 

今よりふっくらしている過去を誰も知らないわけですし、

タレントさん、モデルさん、アーティストさんにしても、一般的に痩せていることが当たり前の世界ですから。

昔のあ~ちゃんの印象とかけ離れているから、心配されて摂食障害じゃないかと疑われるのでしょう。

 

拒食症だった私からしてみたら、今回の記事に対して、

「いやいや、拒食症だったらピラティスもダンスパフォーマンスもできないから」

そう突っ込みを入れたくなります。

 

食べなくてもしばらくは身体を動かすことができますが、食べない状態が長く続くと、次第に元気がなくなり身体がダルくて動かせなくなります。

 

とてもじゃないけどマシーンピラティスもダンスもできたもんじゃありません。

 

また、食べていなければ筋肉もつくられないので引き締まったボディーは手に入れられませんよね。ちょっと考えれば分かることです。

 

あ~ちゃんはすごくポジティブなダイエットをしているんだなと私は思っています。

 

芸能界は一般の社会とはやはり違いますよね。

純粋に自分が商品なのですから、商品を磨き上げるために別次元のストイックさがあって当然だと思います。

 

GACKTさんやYOSHIKIさんやなかやまきんに君が良い例でしょうか。多くの方が、見せないだけで、裏では相当なお金をかけてストイックなことをしていると思いますしね。

 

健康的な体型のあ~ちゃんが好きだったという意見もあるようですが、自分の美を求めて立ち止まらず向上心あるあ~ちゃんは立派だと思います。

 

私たちの心と身体は密接に関係しているため、どちらかが崩れたら共倒れします。

心と身体、両者バランスをとりながら生きています。

 

食べることは身体を構成する栄養素を確保することはもちろん、心の栄養としてスイーツを食べることは癒やしや喜びとなり、不必要なこととも言えません。

 

一方で、

食べないことで心と身体のバランスをとる場合もあります。

 

風邪をひいて食欲がなく食べられない時、身体はウイルスを撃退しようと体温を上昇させることにエネルギーを費やしています。

 

風邪を引いたときは消化の良いものを食べろと言われるのは、ウイルスを攻撃するためのエネルギー消費(発熱など)が優先されるため体力低下が起こり、消化吸収能力が減退しているためです。

 

こんな時に、食べたくない気持ちに反してモリモリ食べたって身体は受け付けず嘔吐で症状は悪化してしまうでしょう。

食欲をなくすことは「防御反応」で、あえて食べないことで身体のコンディションを整えているのです。

 

食べることを拒否する拒食症も風邪を引いたときと同じような仕組みなんです。

 

心が孤独や迷いや失意を感じた時、その大きな感情に意識やエネルギーは費やされます。その大きな感情が苦痛を伴えば伴うほど、生きることが辛く嘆き悲しむことになります。

 

この大きな感情を抱えたままエネルギーを消耗させていくことは辛すぎるので、

「他のことに意識を向けることで大きな感情を処理しよう」とする現象が食べ物を拒む「拒食症」です。

 

食べないことに全意識を傾けることで、孤独や迷いや失意といった苦痛を意識外に追いやることができ、「今」を生きることができるのです。

 

拒食すれば痩せていくので身体は元気になれず、バランスをとるためなんておかしい気もしますが、

 

エネルギーを消耗させるような感情を抱えて生きていくことが、生命が脅かされるほど苦痛だと感じた場合、この感情を処理するための物凄い圧力で、身体に食事を拒めと司令がいくのだと思っています。

 

拒食症は食べないという手段で「自分を完全防御」して、「生きるために」心と身体のバランスをとっているのです。

 

Perfumeのあ~ちゃんに話を戻せば、

あ~ちゃんは拒食症でも摂食障害でもないので、そんな防御をしてバランスをとる必要など全く持ってないのでしょう。

 

ダイエットと摂食障害を混同して考えないでほしいです。身体を心配してなんでしょうけど。

 

痩せていくこと全てが摂食障害というわけではないです。

大半は痩せない、痩せられない過食症といった摂食障害ですから。

なんだか「摂食障害なめんなよ」って、的外れにちょっと思ってしまいました。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

「大食い番組」は「平和の象徴」だということ

私は20年以上摂食障害でした。

 

苦痛ばかりの時間に思えますが、

自分は確実に痩せているというある種の万能感や、食べたいものをお腹いっぱいになるまで食べ尽くす一時の快楽は確かにあって、

それらを求めてひたすら苦痛を受け止めた20年だったとも言えるような気がします。

 

そんな摂食障害の最中、私は大食い番組を見ることが好きでした。

 

TVチャンピオンの世代で、ギャル曽根さん、アンジェラ佐藤さん、赤坂尊子さん(知ってる人いますかね)といった大食いタレントと言われる人たちを、中村有志さんの実況とともに見てきました。

 

今も地上波で大食い番組はありますし、大食いをYouTubeで発信している人はたくさんいるみたいですね。それだけ見る人がいるということなのでしょうけど、

 

皆さん、大食いタレントや大食いしている人を、どんな気持ちで見ているんでしょう?

 

「すごいなー」って見ている

きっとこれが圧倒的ですよね。

 

超人的なことを成し遂げる様は、なんだってすごいなーって見たくなります。

これにプラスαで「美人」なんてワードが付くと、もっと超人的なことのように思えて魅了され、もっと見たくなるのかもしれません。

 

しかし、

恐らく拒食症や過食症の人たちは、大食いタレントさんや大食いする人を、もう少し別の角度から見ています。

 

私は録画して何回も何回も見るほど、TVチャンピオンの大食い企画が好きでしたが、

大食いする選手を見て、頭の中で大食いの「疑似体験」をすることに、至福の時を感じていました。

 

超人的なことを黙々と成し遂げている、そのことにモチロン「すごいなー」って思いますが、焦点はそこではありませんでした。

 

拒食症の時、自分で決めた食べ物以外食べることは絶対に禁止なので口にしません。潔いのですが、食べたい気持ちはくすぶっていました。

 

ドーナツやケーキ、ふんわりしたパンなど、食べたいものをノートにイラストにして、そこでも描くことで食べる疑似体験をしていました。

 

同じような疑似体験として、旅番組もそうですし、報道番組のグルメ特集もそうでした。

食べたーい行きたーいという視点というより、食べているタレントさんを見て、「自分が食べているように感じたい」その感覚を求めるように番組を見ていました。

 

これは、私だけではないと思うんですよね。

拒食症の人が、家族に料理を作って食べることを強要するとか聞いたことがありますが、これはまさに「疑似体験」をしたいがためなんですよね。

 

拒食症や過食症の人は、そんな「疑似体験視点」で大食い番組を見ているのではないかなと、思っています。

一言で言えば、「食べることに飢えている」ということですね。

 

食事を拒む拒食症はもちろんのこと、大量に食べる過食症にしても、毎食過食しているわけではないから、どこかで食欲を抑制しています。

 

そんな食欲のコントロールと関係なく食べている姿が羨ましい、食べたいだけ食べられるこの人になりたかったって思いながら疑似体験しているのでしょう。

 

大食い番組を見ている視聴者の中には、昔の私のように疑似体験を求めている拒食症や過食症の人が、案外いるのかもしれませんね。

 

一方で、大食いレベルが超人的すぎるので、自分のように食べた後に吐いていないのかと思いながら見ていたりもしましたが、実際そんな人もいるみたいなので、複雑な気持ちになりますね。

 

吐いている人が大食いタレントをしているからって、責めるネタかと言ったら、一応胃に収めているから嘘ではないし詐欺でもなくて、

ただ、「大食いタレント(吐いてます)」だと、超人的なすごいなーって感覚は失われ、哀れみの目線になり視聴者は減ってしまいそうなので、大食いタレントを仕事にする場合には、なかなか公にはできないことなのでしょうね。

 

今の私は、疑似体験視点で大食い番組を見ることはなくて「今の時代は平和だな〜」「身体に悪そうだな〜」って思いながら見ています。

「今の時代は平和だな〜」という視点は、食べ物やフードロスに溢れるデパ地下に行った時の感覚に近いです。

 

拒食症と過食症で、散々食べ物をトイレに流してきた私が言うことではないかもしれないけど、

過去、食べ物を粗末にしてきた経験があるから、今の私は食べ物を大切にしなきゃいけないと思っています。

 

大食い番組のモラルを問われていることは確かで、SDGsの流れからも、豊かな国の裏で、飢餓で死んでいく国が存在することも忘れてはいけないという波は来ています。

 

私たちの価値観が大きく変化して、大食い番組が地上波で放送しなくなる時は、SDGsとかの綺麗事ではなく、リアルに私たちの物質的な豊かさが衰退している時でしょう。

例えば、地震や台風による被害で食べるものに不自由していた人に、大食い番組はどう映るでしょう。

 

大食い番組1つ取っても、いろんな見方、考え方があります。良い悪いは価値観の問題になってきますし、その時の経済状況といった社会的背景も大きく影響されると思います。

 

そんなことを考えると、地上波で大食い番組が放送されている今この平和な時が、とても尊く感じます。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。



病院やクリニックに行かなくても、過食症は自分で治せる

拒食症や過食症には「特効薬」がありません。

「これが効く」とか「これをしたら治る」とか、そんなものはありません。

 

私は過去、どうしてもやめられない過食嘔吐に悩んでいたので「過食症を治す」といわれている方法をあれこれ試しました。

 

カウンセリング、薬物療法自助グループ

なかには自分には合わないなと思って短期間でやめたものもありますが、どれを試しても過食は止むことなく続き、嘔吐も続きました。

 

私の摂食障害治療のスタートは、某大学病院の精神科でした。

20年以上前の当時でも、ネットで摂食障害と検索すれば何でも出てくるような感じではありましたが、それでも、自分は狂ってしまったんじゃないかと強い不安を抱いた時でした。

 

制御が効かずに大量に食べてしまう自分、その後太ってしまうという凄まじい恐怖から吐いてしまう自分、そんな自分の行動を普通ではないと認識しながら、

 

「今回だけだ」「もう二度とこんなことしない!」そう自分に誓い、その後、構えながら生活していくわけですが、

「今回だけだ」「もう二度とこんなことしない!」はことごとく裏切られていきました。

 

いよいよ連日のように過食嘔吐するようになると、自分はどうにかなってしまうんじゃないかとの不安はピークに達し、なんとか助けを求め、20代の初めに大学病院の精神科を受診したのでした。

 

人は病名が付けば安心すると言います。

なんだかわからない不安というのが1番耐え難く、辛いのだといいます。

 

病名をつけてもらうため、そして、治療薬や治療法が示され安心したいために、病院へ行くのでしょう。

 

過食症」は、病名を聞かずとも過食嘔吐するのでわかりきったことですが、

(拒食症は自分に起きていることに対して不安に思わないし、安心を求めていないので病院へは行かないでしょう)

 

治療薬や治療法が提示され、これで救われるという安心を、当時の私は強烈に求めていました。

それだけ、過食して嘔吐する状況にいる自分が不安だったのです。

 

摂食障害前半戦の10年余りは、

どの治療法を試しても軌道にのれないような結末で、

残りの10年摂食障害後半戦になると、

日々の忙しさの中で、過食の問題ばかりにフォーカスしていられなくなり、

 

過食症を治すことを半分諦めたような、過食症を半分受け入れたような感じで、

過食嘔吐することに悩んでいるけど、積極的に治そうという気持ちにはなれず、

 

「いつかなくなって」という願いに近い気持ちで、生きていたように感じています。

 

そしてその「いつかなくなって」という願いは、予期せぬ形で叶うことになりました。

 

ブログに何度も書いていますが、

上腹部に直径7cmほどの良性腫瘍ができて(強い腹痛で発覚しました)、手術することとなり、

「あーもう過食嘔吐なんてできないな」とお手上げ状態になり、20年以上続いた摂食障害の幕が強制的に閉められることとなりました。

 

この予期せぬ出来事が良いか悪いかは置いておいて、私はこの自分の経験から、

「要らなくなったものなのに固執していると、こうしてハプニング的に手元からなくなるんだ」と理解しました。

 

過食症に悩む多くの人が、病院やクリニックには足を運ばないようですが、

私は、病院やクリニックに行ったほうが良いとも思わないし、病院やクリニックに行かなくていいとも思いませんが、

 

「病院やクリニックに行かなくても過食症は治せる」と思っています。

 

病院やクリニックへ行けば、恐らく治療法を提示してもらえますが、

その人に合ったもので、継続できることであれば、治療を進めていけるでしょうが、

私のようにどれもピンとこない、継続できないのなら、「自分でなんとかする」しかなくなります。

 

私は一応自力で過食症を治したと思っていますが、自分で過食症を治療する際に大切なことは、「過食症という症状に焦点を当てないこと」だと思いました。

 

生きることに奮闘する中で、「いつかなくなって」と願い、予期せぬ形で過食症がなくなったように、

 

「過食してしまうこと」や「嘔吐してしまうこと」を「人生の悩み全て」にしないように生きることです。

 

「過食してしまう」「嘔吐してしまう」葛藤はどうしたって自分を侵食します。

しかし、葛藤を相手に悩んでも「過食してしまうこと」はやめられないし、「嘔吐してしまうこと」もやめられません。

 

「過食してしまう」「嘔吐してしまう」その根源にある

「痩せていないといけない」のはどうしてなの?

 

それを自分で理解して、その対処に当たりながら生きていくことが必要です。

 

私の場合、「痩せていないといけない」のは、

「自分への劣等感」「自分への不満」「自分に自信がないこと」でした。

 

私だけじゃない、おそらく摂食障害の人の「痩せていないといけない」は、みんなここにあると思っています。

 

私は摂食障害後半戦の10年ほどかけて、壁に当たり、自分の意志で路線変更しながら、自分自身の生き方を変えようとしました。

自信を持って自分の人生を生きていきたいためでした。

 

他人を羨む自分も、他人を妬む自分も嫌いでした。

 

「他人と比較するな」とよく聞きますが、

自分に自信がある人ならできることで、自分に自信がなくて劣等感を抱く人は「比較するな」と言われたって、比較してしまいます。

 

自然と意識だけで自分に自信がついたらラクなのですが、そんなメソッド絶対にないと思っています。

 

他人と比較しないようにするためには、自分に自信を持てるように「自らの力で自分や環境を変えていく」しかないのです。

 

ひたすらなりたい自分になるために「努力」することでしか、自信なんて獲得できません。

それが、現実だと思いました。

 

自分に自信を持つことができれば、この世界で生きていくことに自信が持てます。

 

そうすれば当たり前のように、自然と痩せることに固執しなくなります。

過食に逃げ込むこともなくなります。

 

私のように、もう過食の助けがなくても生きていけるのに惰性で過食を続けていれば、予期せぬ形で取り上げらます。

 

みんな何か病気を患えば、不安だしどうにかしたい治したいと思うから、特別な治療法を欲しがります。

私ももちろんそれを求めて彷徨いました。

 

しかし、

「なぜそうまでして痩せなくちゃいけないの?」

 

というそもそもの自分の気持ちに問いかければ、摂食障害の原因は明確で、

その原因の解決にあたることで、摂食障害が治るということは言うまでもありません。

 

そして、

個人差もありますが、解決までにそれなりに時間がかかるということも、知ってほしいと思っています。

 

「こうなりたい自分」に

恐れず少しずつ踏み出せばいい

いっぱい壁に当たって時に過食が酷くなるかもしれないけど大丈夫です。

 

少しの勇気と努力の積み重ねで、過食症は治せます。

摂食障害歴20年前以上の私が治せたんだから、多くの人が「過食症は自分で治せる」と思っています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

なぜこんなにも世界的に摂食障害を患う人がいるのでしょう?〜飽食の時代と痩せ賛美と精神的貧困〜

過食症に苦しんでいた時、

「こんなに細い人たちがいっぱいいる日本にいるから、私はいつまでも痩せることにこだわってしまうんだ!ビッグサイズの米国に行けば、私は痩せる必要がなくなって、過食も治るかもしれない!」

と思った時期がありました。

 

米国はご存知の通り肥満大国です。

米国の成人の42.4%が肥満(BMI30以上)といわれているそうです。

多くの人が、糖質や脂質たっぷりの食事を食べたいだけ食べて、運動をしていない現状だと察します。

 

一方で、

そんな国民の約半分が肥満という米国にも、摂食障害患者は多いのです。

 

正確なデータが探せなかったので患者数を示しにくいのですが、

米国の摂食障害者数(拒食症と過食症)は125万人ともいわれており、世界トップかトップクラスだそうです。

 

この患者数には恐らく摂食障害予備軍の数は含まれていないので、

それらの数を含めると、3,000万人になるともいわれているようです。

 

これに対し日本でも摂食障害患者数は年間21万人といわれています。日本も摂食障害予備軍を含めると相当な数になると思います。

 

また、米国以外でも中国、ブラジル、メキシコなど世界的に摂食障害患者は存在します。

 

摂食障害の拒食・過食という問題は日本に限ったことではなく、飽食の時代の恩恵を受ける国であれば浮上してくる問題だと思っています。

 

食べ物から命を頂く、食べ物を尊く思うような古代人とは違い、現代人にはそんな感覚持ち合わせていません。

 

コンビニに駅ビルにと常に食べ物に溢れていて、命を頂くことは簡単に叶うので、食べられない危機もありません。

また、食べ物は楽しみで、食べることが趣味にもなって、食べることがストレス解消にもなります。

 

食べ物が豊富に手に入る国であれば太ることは簡単で、「手に入れることが難しい痩せている体型への賛美が増す」という現象は大いにあると思います。

 

そして、それを刺激するような「痩せ賛美」の社会的風潮があり、

近年ではSNSでそれが広く世界へ拡散されるようなところも「痩せ賛美」「痩せ信仰」が止まない要因の1つだと思っています。

 

痩せるサプリや痩せるドリンクなど、明らかに怪しい商売が後を絶たないのにも、そんな社会的風潮がずっと継続しているからですよね。

 

私は昔の人間なので勝手なイメージかもしれませんが、米国は日本よりも「個」を重んじる国と感じています。

 

自己主張はしっかりする、自分の意見は伝える、YesNoの文化は曖昧表現の多い日本との違いを感じさせ、

 

「個がある」「個でいい」「私は私でいい」そんな国だと認識しています。

 

しかし、そんな米国国民でも、「私は私でいい」「私は私の体型でいい」と思えず、

自分を否定するような行動(食事の拒否、過食嘔吐、自暴自棄になってむちゃ食いをする)をする人が、恐らくそれなりに一定数存在するという事実は、少し意外な気がしています。

 

では、「なぜこんなにも世界的に摂食障害を患う人がいるのでしょう?」

 

私はこの回答について、米国も日本も同じ、どの世界でも共通だと思っています。

 

「飽食の時代」と「痩せ賛美」「痩せ信仰」の社会的風潮の要因は非常に大きいですが、

この回答を助長する要因でしかないと思っています。

 

摂食障害は大人になるための過程」です。

摂食障害は「人として成長する必要があるため」に陥ります。

 

自分という人間を知り、一皮剥けて自立し、強く生きていくためのハードルです。

 

摂食障害に陥る時は「人生の迷子」になっている時です。

 

幼児ならその場で泣いてじっとしていれば、大人が助けてくれて、こっちだよって自分の行き先へ手をつないで一緒に歩いてくれますが、

 

摂食障害として迷子になっている場合は、助けがきたとしても、こっちだよって行き先は示してくれるだけです。

寂しいよ〜と言って手をつないで一緒に歩いてもらったら2人で迷子になってしまうので、

どこかのタイミングで手を放し、1人で歩いていかなければいけません。

 

「迷子になった本人が自力で歩き、そこから脱出する」しかないんです。

 

自分に自信がない、自分は認めてもらえない

世界中の誰もがそんな気持ちを抱くときがあります。

 

以前ブログで頂き女子りりちゃんについて書きましたが、彼女はホストにハマらなかったら、摂食障害に陥って自分を傷付け破滅した可能性も十分にあると思っています。

 

何かに陥る、その対象となる何かが違うだけで、

そこから這い上がり成長を促される末路は同じなんだろうと思っています。

 

食べ物や物質的なものが豊富であれば、どうしても精神は貧困化すると思っています。

物質的なモノと精神は対で、振り子のようにバランスをとっています。

私たちがどんどん考えることをしなくなり、創造力がなくなっていくのは仕方ないことなのかもしれません。

 

貧困化した精神は苦痛や困難を通して人間的成長を促します。

そして、そんな人間的成長を促されているのは、世界共通ということなのでしょう。

 

冒頭の、米国に行ったら私は痩せる必要がなくなって過食が治るかといったら、そんなことないですね。

自分1人で米国で生活するための精神的成長を遂げたら、過食なんて要らなくなるでしょうが、環境だけを変えても、自分が変わらなければ意味がありません。

 

摂食障害患者数は「メンタルケアが困難な人の数」ということです。

 

摂食障害は飽食の時代の産物で、

さらに、「痩せ賛美」という社会的風潮がそれを加速させて患者数は増加しているわけですが、

これらの要因とともに、

 

摂食障害は「物質的な豊かさの裏側に生じた弊害」だと思っています。

 

自分を見失い迷い込んだ迷路で、泣きながらずっと座り込み、時にひたすらぐるぐる彷徨っている人たちが、

自分の行き先までしっかり自分の足で歩いていけますようにと思うばかりです。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。