若年層でも中高年層でも、「痩せていることは美の基準の重要なひとつ」だと認識されています。
しかし、痩せていて美しいと感じるのも程度問題だということも、私たちは認識しています。
スラリとした手足は美しいと感じますが、関節が際立ちガリガリの手足と表現されるようでは、痛々しくて美しさは感じられません。
芸能人やモデルさんが痩せていて美しいのは、痩せていても健康だからだと思ったことはありますか?
彼女たちは恵まれた美貌とスタイルを、努力して磨いて保っています。
中には無理な食事制限をしてストレスがたまった、拒食症になったというエピソードも聞きますが、
多くの方が、ストイックに自己管理して美を保っていると感じています。
美しいスタイルは痩せているだけでは獲得できません。程よい、もしくはそれ以上の筋肉があってこそ、美しいスタイルは保たれます。
また、美しい肌艶は内側から生まれるものです血液が毛細血管の隅々までよく行き渡っているから、血色が良く明るい肌と、リンパの流れが良いから浮腫みなく、美しい顎から首肩ラインが出来上がるんだろうと思っています。(エステやマッサージの効果もあると思いますが。)
というのも、
私は痩せているだけで筋肉が少ないために、上半身が削げたような印象です。
年齢的なものもありますが、拒食症時期に極端な食事制限をしたことが筋肉を失った大きな原因だと思っていて、
「痩せている=美しい」という認識は間違っていると感じています。
また、私は血液の巡りが悪くて冷え性です。
これも、極端な食事制限で皮下脂肪とともに筋肉が落ちたことが原因だと思っています。
そのため、年齢的なものもありますが、どこか顔色が悪いような気がしています。
妊娠していた頃、イエベの自分の肌色がワントーン明るくなったのを覚えています。
赤ちゃんに栄養を与えるために、循環血液量が増して血液の巡りも良くなっていたからなんだと、振り返っています。
過食嘔吐していたけど、当時の私の身体はまだ若かったので、赤ちゃんを産むために頑張りが効いたのだと思っています。
そんなことを考えていると、
多くの人が抱く「痩せて綺麗になりたい」という願望
「痩せている=美しい」
という公式は間違っていて、
「健康=美しい」
という公式が正しいんじゃないかなと思っています。
当たり前すぎるものに価値を見いだせないように、健康が当然で当たり前だと「健康=美しい」という公式が導き出せません。
地震などの天災に遭って、何でもない日常の有り難みを痛感するように、
健康を失ったり、失うような危機に陥らないと、健康の有り難みを感じられないから、
「健康=美しい」ことの理解は難しいのでしょう。
ことさら、若い頃は健康であることが当たり前です。回復力も抜群です。
「健康=美しい」と理解できるのは、ずっと先になるのもまた、当たり前なのでしょう。
私だってそうでした。
生理が来なくたって全然構わなくて、妊娠できなくなるリスクを説かれたところで、
先のことで彼氏もいないし想像もできないことで、
そんな先のことよりも大切なのは痩せることでした。
なので、
私が「健康=美しい」と理解したのも40代になった今やっとのことで、
拒食症、過食嘔吐を長年経験して「痩せている=美しい」という価値観で生きて、行き着いた「結果」の話です。
でもだからこそ、
どっかの誰かが言ってたこと、書いてたことを写しとったものでもごく一般論でもなくて、
「リアルな体験からの嘘のない話」なんです。
「健康=美しい」を認識できない人が多いから、
これ一杯で痩せられるドリンクとか、痩せる酵素サプリとか、手っ取り早さを求めて、そんな商売が絶えないのだと思っています。
胡散臭い商品だと思うけど行動が伴わず、つい手を出していまうのが痩せたい気持ちで、ダイエットの落とし穴だったりもします。
「痩せている=美しい」の公式だけ丸覚えして、応用問題でそれを活用できないようなもんです。
実際問題を解いていくと、「痩せている」の中には、脂肪を燃焼させる有酸素運動の他、無酸素運動である筋トレがあって、程よく筋肉を保てるような食事が必須なはずです。
そして、これら美しさは時間をかけて積み上げて作っていくものです。
今も昔も、痩せていることが良しみたいな風潮があるし、「健康(ヘルシー)=痩せている」みたいな公式も存在していると感じています。
でもこれ、決してイコールではありませんよね。
ヘルシー食品と明記されていれば売り上げは上がるようですし、企業にとっては有り難い効果ですが、痩せる必要のない人までヘルシー食品を買い求めるわけです。
(実際本当にヘルシーかの見極めをして買った方がいいと感じる商品ものも多いと感じています。)
先程も書いたように、
恥ずかしながら、摂食障害のブログを書き始めた当初、
私自身「痩せている=美しい」という公式まではいかずとも、「痩せていることが美しい」という固定概念をまだ持ち合わせていました。
しかし、
ブログを書きながら考えたり、
自分がしてきた拒食症と過食嘔吐が与えた身体へのダメージを感じるたびに、
「痩せていることが美しい」という固定概念が覆されていきました。
私は、ブログで過食嘔吐はいつかは必ず止められると書いています。
それは、歳をとれば消化機能も低下して過食に絶えられる胃腸でいられなくなることと、
嘔吐する体力もなくなるためです。
若い時には全然平気だったことができなくなってくることが「歳をとる」ということで、
若い時にしたことが跳ね返ってくることもまた、「歳をとる」ということなんだと理解しました。
私が過食嘔吐を止めるキッカケになった上腹部の良性腫瘍も、若い時から積み上げた嘔吐の際の腹部圧迫がもたらしたもので、
頑固な首コリ肩コリも17年間嘔吐し続けたことが大きな原因で、
血流悪く冷え性なのも拒食症がもたらしたもので、
逆流性食道炎も嘔吐し続けたことが原因です。
「過去積み上げたものが今になる」ということを、自分の身体が良く現しているなと感じています。
悪意も何の打算もなく、ただ痩せただけ、食べて吐くことをどうしてもやめられなかったことによって、
こういう何とも言えない苦い思いをする人が、少なくなってほしいなと思っています。
今摂食障害で悩んでいる人が、このブログを読んだとしても、何のストッパーにもならないのは分かっています。
渦中にあって、先の健康なんて考えられず、むしろ早く死にたいと思っていて、
今は痩せることしか考えられない、
食べたくないのに食べるしかできない、
食べたくないのに食べて吐くしかできないなら、
私はそういう時期なんだと、その気持ちに任せて良いと思っています。
ただ、そういう時期にしてほしいことがあります。
痩せることしか考えられなくても、何故自分はそこまで痩せたいのかを考える時間を作ってほしい。
食べたくないのに食べることしかできなくても、何故自分は食べたくないのにそこまで食べなきゃいけないのかを考える時間を作ってほしい。
食べたくないのに食べて吐くしかできなくても、何故自分は食べたくないのにそこまで食べてしまうのか、そして、何故それを吐いてしまうのかを考える時間を作ってほしい。
「過去」積み上げたものが「今」になり、
「今」が「未来」に続くので、
「自分と向き合い続ける今の連続」は、必ず「摂食障害を克服する未来」に繋がります。
こんなこと、誰も教えてくれなかったけど、そうなんだと思います。
何事も結果が出るまでには時間がかかります。
勉強だって、評価や信頼、子育てもそうです。
若い頃の摂食障害がもたらした結果はなかなかヘビーですが、
この今の自分は「結果ではなく途中経過」と思えば、これからも前向きに生きられるような気がしています。
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。