ずっと過食症のままということなどあり得ないから大丈夫という話。

「自然界で起こることは人間界でも起こる」

と古代中国人は考えていたようです。

 

自然の中で生き、自然の恩恵によって生かされている私たちは、

「自然にのっからせてもらっているだけ」

なので、自然を無視して生きることは絶対にできません。

 

昨日は1年で最も日が短く夜が長い冬至でした。太陽の角度は低値のピークを迎え、これから徐々に日が伸びて明るい時間が長くなります。

 

太陽に照らされ明るい時間が長くなるというと、緊張がほどけて開放感があるイメージに対して、

太陽が隠れて暗い時間が長くなるというと、気持ち的にちょっと構えるような緊張感や刹那的なイメージを抱きがちですが、

 

暗いと感じるから、明るいと感じられる。

暗い夜があるから、日中が明るいと感じられる。

暗い夜には太陽が見えないけれど、明るい日中では見ることのてきない月を見ることができる。

 

つまりは、

暗いも明るいも表裏一体、片方があるからもう片方が引き立つといった感じで、

良い悪いはないということになります。

 

しかし、この事を実生活で理解するよう咀嚼して飲み込むには、なかなかの修行だなと思いますよね。

 

ここを乗り越えればきっとたどり着けると思っていても、街灯もなく暗い道を歩くのは辛く苦しく、明るい光が差し込む兆しすら感じられなくなって、

どこまでこの道は続くのか、この道で良いのか不安になるものです。

 

途中、店内の明るさが外まで漏れ出るコンビニを見つけて、その明るさにやっとたどり着いたと自分を称え安堵を得ても、

コンビニにそのまま居座ることも、コンビニの駐車場に座り込んで寝泊まりしようにも、営業妨害だと店員さんに注意され警察官に連行されて、

 

やっとたどり着いたと思った場所でも、そこを離れなくちゃいけない時がやってきて、

また新たにたどり着く場所を求め、暗い道を不安や希望を抱き歩いていくようになるのでしょう。

 

「苦があるから福を得られる」

もっともなのですが、

実生活としての感覚は、

苦の時間は自分が望まない時間なために、長く感じるように思います。

表も裏もまるごと咀嚼して飲み込めないのは、望まない時間を過ごすのは苦しいだけでなく、それを越えたら幸福が得られる保障なんてないためでしょう。

 

意識していても意識しなくても、

自然界の動きと同じように、私たちの歩む人生のバックグラウンドでは「陰陽劇」が繰り広げられています。

 

人間の一生としたら、

この世に誕生してぐんぐん成長し、成長のピークを迎えたら、

今度は徐々に衰退し、衰退のピークが死になります。

「誕生は必ず死を生んで、成長は必ず衰退を生む」ということだともいえます。

 

人間は一生動かないということはできません。

それは、生まれて死ぬという動きだけではなく、心が移り変われば行動も変わり、環境が変われば動かざるを得ないように、

人生を歩むには動きが伴うので、

 

ずっと暗いだけはない、ずっと明るいだけはない

ずっと苦難だけはない、ずっと幸福だけはない

 

ということは絶対です。

 

先が見えないけど、暗さも明るさも合わせ持つ未来へ歩いて(動いて)いくことが、生きることなんだろうと感じます。

 

苦しい先に幸福が得られる保障なんてないけれど、

「ずっとそのまま動かないということはない」ということは保障できるのです。

 

誕生したら成長するとともに死へ動いていく

太陽が昇れば日が降り注ぐとともに夜に向かっていく、

そんな動いていることを示す不動の法則が、自然界を生きる私たちの周囲にはうごめいているのでしょう。

 

摂食障害の苦しみにしても周囲にうごめくものと同じです。

 

今は先が見えず八方塞がりに感じても、暗さも明るさも合わせ持つ未来へ歩いている真っ最中の時だということです。

きっと特別なことのようで、特別なことではないんです。

 

摂食障害という人生のひとつの苦難は動くもので、いつか明るい光を得られる

表裏一体を生きるということに他なりません。

なので、悲観的になって私は不幸だと言うには早いです。

 

摂食障害の辛いところの1つに、

「この過食嘔吐する状態がずっと続くのではないか」「自分は正常に戻ることができるのか」

そんな不安があると思います。

 

この不安は過食症歴20年近いベテランだった私でも、上腹部の良性腫瘍過食症から解放されるまでずっとつきまとっていました。

 

過食を受け入れ仲良くしてしまおうと思った時もあったけど、私は嘔吐が下手で苦痛でした。

過食で快楽を得ても、辛く苦しい嘔吐と仲良くなんてできないと思ったので

「早く解放されたい」「いつ解放されるのよ」

そんな不安と憤りに駆らていました。

 

過食嘔吐って、過食の快楽と嘔吐の苦しみを合わせ持つ表裏一体ですね。ワンセット(一体)としてぐるぐる回ってしまえるから、なかなか抜けられないとも言えるのかもしれません。)

 

摂食障害の渦中にあるときに欲しいのは「大丈夫」という安心です。

 

どこかの誰かもあの年齢で過食嘔吐しているから自分はまだ大丈夫

どこかの誰かも自分と同じように苦しんでるから大丈夫

そんな比べっこの大丈夫は、

「自分をその比べている対象と同等の位置に持っていくだけ」で、

有効な大丈夫ではないと今なら分かります。

 

過食嘔吐して自分に絶望している時に、

「不安だし自分が嫌になるだろうけど、ずっとそのままなんてこと絶対にないから」

辛い時にそう教えてもらえたら、少しラクになれたかもなと当時を思い返します。

 

動かないことが何より不安なんです。

自体が変わらない、何も変化しない、周囲は確実に変化しているのに、ずっとずっと過食嘔吐してる変わらない自分に不安を抱きます。

 

けれども、絶対に動くときが来るんです。

もちろん、自分が望む方へ動くだけではなく、悪いようにも動く可能性だってあります。

その動きの方向性は自分の努力にあるんだろうと思います。

 

自分に対して完全に信頼を失い、諦めてしまえば、望まない方向へ動くだろうし、

自分を信頼して諦めず、社会生活を続けていけば、

いつか必ず自分が望む方へ動く時がきます。

 

過食症という経験は苦の時間かもしれないけれど、ひっくり返れば福の時間がやってきます。

 

地球上全てのものが動くことが自然、動かないことはないのです。

未来へ向かう、生きるということが、

自然と動きや変化、明るさや暗さ、苦痛や幸福を伴います。

 

「時間がかかるかもしれないという条件付き」ではあるけれど、

必ず「過食嘔吐から解放されたい」というその気持ちは叶うと思っています。

 

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。