「頂き女子りりちゃん」と「拒食症」との類似点を自分の経験より

先日、恋愛感情を利用して男性から高額の現金を騙し取ったなどの罪に問われていた頂き女子りりちゃんの裁判で、

懲役9年・罰金800万円(求刑懲役13年・罰金1200万円)の判決が言い渡されたとネットニュースで読みました。

news.yahoo.co.jp

彼女が拘置所で書いたとされる87枚にも渡る手記には、彼女の生い立ちからホストにハマり「頂き女子りりちゃん」となり、判決を待つ現在の心境まで書かれていました。

 

この頂き女子りりちゃんの事件や判決に関して、本当に様々な意見が挙がると思うのですが、

 

私は彼女の犯した罪は許されるものではないと思いますし、

自分の財産と心を彼女に明け渡し、裏切られた被害者の気持ちになってみたら、

彼女に対してそれはもうお願いだから死んでくれというような心情になると思うのですが、

 

それでもどうしても、私は彼女に対して同情してしまう人間です。

 

それは、

「誰かに必要とされたい」「認めてもらいたい」という彼女の強い承認欲求と、

「自分がこの世に生きる意味」「存在意義」を見出だせない暗闇の中を生きるような孤独に、

 

彼女の抱えてきた重みに失礼かもしれないけれど、共感できるからです。

 

もしかしたら私だけじゃない

 

口にはしないけど、深く考えなんかしないけど、

この頂き女子りりちゃんの、

「誰かに必要とされたい」「認めてもらいたい」という、彼女の強い承認欲求や強い孤独を

 

「わかるな」って思う(特に若い女性)人は案外いるかもなと思っています。

 

なぜそう思うのかというと、

痩せている若い女性の増加、「痩せたい」と強く願うその心理に、映し出されていると思うからです。

 

飽食の時代から現在まで、

美味しいものに溢れ、美味しいものが日々捨てられているほど、私たちは食べるものに不自由がなくなり、太ることよりも痩せることが困難になり、

いつしか、痩せていることは揺るがない美の基準となり、

痩せている人が特別で勝者だという「痩せ信仰」の社会となりました。

 

その痩せ信仰が根付いている今、

私たちは物質的な豊かさに恵まれるあまり、精神的な豊かさを失ってきているんだろうと感じます。

 

物質の対にある精神は常にセットとして働いています。

 

物が粗末に捨てられるという意識はなくとも、物質的に豊かすぎる現在のような社会に至っては、必然的に私たちの「精神は貧しくなっている」のでしょう。

 

自分の屈折した感情を放置して自分と向き合うことをしない

自分の存在価値を模索しない

自分という人間が追い求めるものを深堀りしない

 

貧しくなった精神は、すぐ手にできる物質的な豊かさを求めるようになります。

分かりやすいところではお金です。

また、それに伴う地位や名誉といったものも分かりやすく自分を豊かにしてくれるでしょう。

 

それと同じように、

「痩せることで賞賛を得る」ことは分かりやすく自分を豊かにしてくれます。

 

痩せていることは美しい、美しさの基準として痩せていることはマスト、痩せている人は認めてもらえる、

嘘のような本当の話で、痩せただけで世間の見方は大きく変わります。

 

また、プチ整形とか整形がそんなに特別なものでもなくなりましたが、お金で精神的な豊かさを手に入れる代表例です。

精神的な葛藤を簡単に解決してくれる整形はどんどんメジャーになっています。

 

「精神的な貧しさ故に、痩せることを求める若い女性が増えている」と私は思っているので(もちろん私はそのうちの1人でした)、

 

頂き女子りりちゃんの「誰かに必要とされたい」「認めてもらいたい」という、

彼女の強い承認欲求や、存在意義を求める孤独を「わかるな」と思う人は、多いんじゃないかと思っています。

 

そして、

拒食症の方、過去拒食症だった方なら、この彼女の欲していた承認欲求や孤独に大いに共感することでしょう。

 

彼女の承認欲求や存在意義は、ホストから褒めてもらえる、特別な女の子として扱ってもらえるという、貢ぐことの見返りとして獲得することができました。

ホストに貢ぐことが悪いわけではなくて、

 

彼女が承認欲求や存在意義を得るための対価となる、貢ぎ物となるお金を得るための手段が、人を騙して得たものだったということが、

常識を逸脱したもので私たちを驚かせましたが、

 

拒食症の方の承認欲求や存在意義は、自分の身体を追い詰めて痩せることの見返りとして得るものです。

 

すごい痩せたね、ガリガリだね、痩せすぎだよ、もっと太った方がいいよ、

 

そんな心配する言葉に、

痩せることで、自分はやっと他人から認識された、自分はやっと痩せられて現実の世界で生きることを許される存在になれた、自分は羨ましがられる存在になっている、そんな承認欲求や存在意義を抱くのです。

 

拒食症までいくと、痩せるための手段は常識を逸脱したものとなります。

人を騙すとか罪を負うようなことにはなりませんが、

自分の身体を追い詰めて、自らを死に近付けるような自滅行為となります。

「痩せるためなら自分の命を落とせる」のです。

 

これと似たような記述が頂き女子りりちゃんの手記にありました。

 

「ホストにお金を使ってあげるためだったら、自分がどうなってもいい。人生も捨てる」

 

承認欲求や存在意義を得るための行為・手段(詐欺行為と痩せるための拒食)は違うけど、

承認欲求を得たい、存在意義を見出したいという動機や目的は、頂き女子りりちゃんも拒食症の方も同じです。

 

承認欲求って、「愛されたいという欲求」と重なるところがありますよね。

認められるって、受け入れてもらえるということですから。

 

頂き女子りりちゃんは、ホストから愛されたかったんですよね。

ホストは自分の全てだったという彼女にとって、そのホストは、唯一無二の母親のような存在だったんだと思います。

 

私は拒食症当時、痩せたことで母親から心配してもらえたことが嬉しかったです。

愛してほしい人が目を向けてくれる、気にしてもらえる、痩せることで初めて母親から守ってもらえた気がしました。

 

自分という人間の居場所がなくて、社会は自分を受け入れてくれない、どこまでも自分は孤独だと感じる、

そんな精神を病んだ状況は、精神的な貧しさの極限なんだと思っています。

 

頂き女子りりちゃんの手記をサイコパスが書いたものだから、手記そのものを疑わしく思うような声もありますが、

彼女がサイコパスなら、この手記にある彼女の生い立ちはサイコパスを作り上げるに十分な要因なので、嘘ではないという解釈もできます。

 

彼女の母親は裁判での情状証人を断り、法廷にも姿を現さなかったとのことで、

こんなに悲しい現実を知ると、

「貧しい精神のまま大人になり親になることって罪深いこと」だと感じます。

 

彼女は両親から傷付けられ致命傷をくらいました。堂々巡りで責任回避に聞こえるかもしれないけど、彼女も被害者だと感じてしまいます。

 

今回の事件は頂き女子りりちゃんという1人の女性のことではありますが、

 

挫折や壁やハードルに出くわさずにいい年齢になってしてしまい、豊かすぎる故、ぬるま湯に浸かっているような平和すぎる思考や、

 

救いようのない環境に成す術がなく、孤独な道や誤った道に進んでしまうことなど、

 

「精神的に成熟できないまま大人になっている人が増えていく社会的問題」を含んでいる気がします。

 

頂き女子りりちゃんの手記の最後

 

「『本当の救いって一体何?』と考えるようになりました。私は今、それを追求していきたい。それが分かるようになったら、私と同じ境遇の女の子達に本当の救いを教えてあげられる存在になりたい」「もう誰も傷つけたくない。強く生きれる女性になります」

 

唯一無二の救いだと思っていたホストは、自分の救いではなかった、ということですね。

 

拒食症や摂食障害にしても同じです。

絶対的に救いだと思っている痩せている身体も、いつか自分の救いではなかったと、気が付く時がきてしまいます。

 

頂き女子りりちゃんの新たな人生が、ここからスタートするように、

痩せ信仰というフィルターがなくなった先に、摂食障害の方の人生も再スタートするのです。

 

彼女は賢い女性ですね。手記を読むと知性を感じさせる箇所があります。もともと書くことが好きだったりしたのかな?もちろん所々しか読めないけれど文章が上手だなと感じました。

 

彼女の一文『本当の救いって一体何?』

 

なんなんでしょうね。

私には分からないし全く持って見つけられないです。

 

摂食障害を克服できたって、自分も人間として大人として親として、未熟だなと感じるばかりです。

 

今回もマニアックなブログを読んで頂き、ありがとうございました。