母親なのに摂食障害の方へ

若い女性の痩せ願望のため、低体重児の赤ちゃんが増えていると問題になっていますが、

私も、妊娠して初期のつわりを終えても、食欲を抑え体重が増えないようにコントロールした1人です。

 

拒食症から過食嘔吐になって約14年あまり経っても、ガリガリと呼べるような体型を保っていました。

長女を妊娠した時、妊娠から出産まで増えた体重は3㎏ほどでした。

 

陣痛の強い痛みを抱えながら分娩台に乗った時に、看護師さんか助産師さんに「ほそっ!」と言われたことを覚えています。

 

妊娠しても太ること(体重が増えること)を恐れていました。

頭では太ってもいいと分かっていても「赤ちゃん分しか増やさない」と決めて食事をコントロールしていました。食べ過ぎれば臨月にもかかわらず嘔吐しました。

 

そんな経験があるために、お腹に赤ちゃんができても太りたくない(体重を増やしたくない)という女性の気持ちはよく分かります。

 

「胎児の成長を考えず自分のことしか考えない未熟な親が、子どもなんて産むもんじゃない」と言われたら、本当にその通りなのですが、

平成令和の時代、成熟した親らしい親なんてそういないでしょう。

 

無責任な発言かもしれないけれど、

私のように、お腹に赤ちゃんができたって太りたくない(体重を増やしたくない)という気持ちの女性が多いということは、そういう時代なのだと感じます。

 

摂食障害ではなくても大人になりきれていない親はいます。

例えば、宗教活動に夫婦でのめり込んで子どもを放って夜遅くまで外に出回ったり、

反対に子どもを連れて夜遅くまで大人の付き合いに参加したり。(同じアパートの住人です)

そんな親も大人になりきれていないと言えるような気がします。社会問題を大きく含んだ問題ですよね。

 

成熟してやっと親役割ができるわ〜なんて思う頃にはおばあちゃんと言われる年齢になっていそうですし、おばあちゃんになっても何も学んできていないような人もいると思います。

 

今は子育てを通して成熟し、親になる時代なんだと感じます。

 

私には子どもが2人いて、ともに女の子ですが、

長女がお腹にいる時に「お腹にいる子は女の子ですよ」と産婦人科の先生から性別を聞いて絶望して泣いたくらい、女の子を育てることに自信がありませんでした。

 

「蛙の子は蛙」のように、

摂食障害の私が女の子を産んで育ててしまえば、子どもは同じように摂食障害になって苦しんでしまうと本気で思っていました。せめて、男の子ならと思っていました。

 

何の事情も説明せずにお腹の子が「赤ちゃんが自分のようになったら嫌です」と泣く私に、産婦人科の先生は困ったと思いますが、「大丈夫よ、あなた1人で育てるわけじゃないから」と慰めてくれました。

 

子育ては夫婦ですることですし、周囲や地域の助けが必要です。

けれども、子どもにとって母親の存在が絶対的なことも、経験から分かっていたので、

自分に女の子ができたことは与えられた試練なんだと思いました。

 

試練はそう簡単に越えられるものではなくて、やめたいと思ってもやめられない過食嘔吐は、そこから長女が中学生になるまで約14年続きました。

 

子どもたちは成長するにつれ、親が何をしているかよく認識できるようになります。

「子どもたちに嘔吐する姿だけは見せちゃいけない」

これだけは、ずっと守っていかなくちゃと思っていたことでした。

 

自分が嘔吐したキッカケ、初めて自己誘発嘔吐をしたのは、

私がまだ看護師の専門学校に通っていた頃、家族旅行から帰宅して、食べ過ぎて苦しいと言った私に

母親が本当に何の気なしにした

「苦しいなら喉に指を入れて吐くとラクになるかも」

という発言からでした。

 

この言葉を聞いて、母親が吐いていいと認めたのなら、吐いて良いんだと理解し、以来自己誘発嘔吐を繰り返すようになりました。

 

親が過食嘔吐する姿は、この母親が「何の気なし」にした発言に値すると思いました。

「蛙の子は蛙」を恐れていました。

 

女の子なら思春期にダイエットをすると思っていました。

食べ過ぎた子どもに対して「明日控え目にすれば大丈夫」と言って安心させて、翌日は低カロリー料理を作ってあげようと思いました。

不用意な発言は凶器のように恐ろしいと感じました。

 

自分のように拒食症になって健康を損なうこと、

過食症になって依存症的にやめたいのにやめられないという精神的苦悩と、健康を損なう肉体的苦悩というダブルパンチを、

子どもたちには経験させたくないという祈るような気持ちだけはありました。

 

今は誰だって摂食障害に陥る危険があると思っています。

SNSという人と比べる環境が身近にあることと、年齢に対して精神的な未熟さが目立つ時代です。

 

天皇皇后の長女愛子様が、一時期痩せられたことを覚えている人は少ないかもしれません。

タブーなことなのか、もうそのことについて触れられたりしませんが、愛子様は当時拒食症だったと思います。

特別な環境だけにストレスが多かったのかなと想像しますが、優秀なお付きの人に囲まれていたって、なる時はなるものです。

 

子どもが摂食障害になったら、親はその現実に立ち向かい苦悩するしかないし、子どもと一緒に成長する試練なんだと思っています。

親子で摂食障害になってしまった場合は、親子にとって試練でしかないんでしょう。

 

私にとって子育て中の制限ある環境は、自分という人間は何を求めているのかと嫌でも考える機会となりました。

 

子どもたちに旦那さんの愚痴をこぼす自分が嫌で、ママ達を羨んでばかりの自分が嫌で、生活のストレスを過食嘔吐して解消する自分が嫌でした。

 

ちゃんとした親になろうという意識は正直ありませんでしたが、

子どもたちの成長と共に、ちゃんとした大人になりたいという意識が少しずつ芽生えてきたのが子育て期間でした。

 

アイデンティティを持ち、摂食障害に寄りかかって生きることはやめて、今までの自分の殻を破ることを望むようになりました。

 

私たちは周囲の環境から生きることや生き方を学びとります。

他人との関係にしろ、自分の置かれている立場上の立ち振舞など、

ぽけ〜っとしていても学べず、見て見ぬふりをしても学べず、やはりそこには主体性が必要になります。

 

自分が親となり子どもがいる環境から必要なことを学び、自分はどうしたいのかを知り、そして行動することで、摂食障害を克服することができるのだと思っています。

 

(今回は親という立場にフォーカスしていますが、親にならなくても、今ある環境から学ぶことが大切なので、自分はどうしたいのかを知る手掛かりとして、細々とでも周囲の社会的環境とはつながっていた方がいいと私は思っています。)

 

私にとって摂食障害は、

「人生の1ページ」ではなく、

「人生というタイトルの小説」そのものでした。

摂食障害はそういうスケールの問題だと思っています。

 

なんだかまとまりのない文章になってしまいました。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。