摂食障害は遺伝するのかしないのか?

私には子どもが2人いますが、2人とも女の子で高校生と中学生、特に高校生の長女は思春期真っ只中です。

 

「可愛くいたいから痩せてたい」

「友達に痩せてると言われるから太れないの」

 

そんな発言を聞くといつかトイレで吐いてしまうんじゃないかと心配になったりしますが、そんな様子は今のところなく、

可愛くいたいし、お友達とのごはんも楽しみたいから、ダイエットも頑張っているようです。

 

摂食障害は遺伝するのかしないのか?」

今回はそんなことを考えたいと思います。

 

高血圧症や高コレステロール血症は「遺伝する」と言われ、家族性高血圧、家族性高コレステロール血症と呼ばれたりします。

 

しかし、両親ともに高血圧症、両親ともに高コレステロール血症で、

遺伝子レベルで高血圧症や高コレステロール血症になりやすい原因があるにしても、

 

親が塩分の多い料理を作る、親が塩分の多い料理を好む、

という家庭環境で育つと、

子も塩分の多い料理を作る、子も塩分の多い料理を好む、

という食卓の影響がある

 

言わば、「食卓の遺伝」がより大きな原因だと言われています。

 

なので、遺伝要因はあるにしても、食生活を改善していくことで、予防や病状の悪化を防ぐことができますよと言われています。

 

では、摂食障害はどうなのか?

 

摂食障害だった私は幼い頃、父は単身赴任、母は仕事でほぼ家にいない家庭に育ったので、祖母の食事を食べて育ちました。

 

祖母は摂食障害ではないし、

私の両親もモチロン摂食障害ではありませんでした。ダイエット信者でもなければ、健康オタクでもない、特に食事にこだわりもない家庭でした。

 

遺伝の始まりは必ずどこかに出発点があるはずです。

 

先ほどの高血圧症にしても高コレステロール血症にしても、

結婚して新たな血縁により新たな遺伝子が加えられることで発生することもありますし、

 

それは、

結婚して新たな食習慣や食の嗜好が加えられるということでもあります。

 

また、突然変異的に私のような人間が発生する場合もあって、そこが出発点となって遺伝的につながっていくパターンもあるでしょう。

 

女優の遠野なぎこさんは過食症をカミングアウトされていますが、母親も過食嘔吐を伴う摂食障害だったそうです。

 

母親に「吐けば太らないからそうしなさい」と、なぎこさんに教えたそうです。

 

遠野なぎこさん親子のようなケースが、摂食障害の遺伝が起こる典型的なパターンかもしれません。

 

「母親が摂食障害だった」

そして、

「母親から吐くことを教わった」

「母親が過食して嘔吐するところを見ていた」

 

他にも、

「母親からデブだブスだ罵られた」

「母親から痩せていなければいけない美しくなければいけないと圧力をかけられた」

 

高血圧症や高コレステロール血症は、その病気になりやすい遺伝子を持っていることに加え、

食卓の遺伝、食卓の影響を受けると先ほど書きましたが、

 

摂食障害の場合は、摂食障害になりやすい遺伝子を持っていることに加え、

母親や家庭環境、社会環境の影響を受けるということになるのでしょう。

 

 

今回私は突然変異的に摂食障害になったと仮定して、

この突然変異的に起こった「摂食障害遺伝子」を、子どもたちも持っていると考えれば、

 

遠野なぎこさん親子のように、

摂食障害だった私に育てられている子どもたちは摂食障害になりやすい」

摂食障害になるリスクが高い」ということになります。

 

ちなみに、子どもたちが小学校の高学年・中学年まで私は過食症でした。

 

遡れば、

私は長女がまだお腹の中にいた時に、お腹の中の子が女の子だと聞いて申し訳ない気持ちになり、産婦人科の先生の前で涙を流したことがあります。

 

自分のような人間がこの世にまた生まれてくることの嫌悪と、

自分と同じように摂食障害になったらどうしようという気持ちで涙を流しました。

(こんな気持ちになったことを今では本当に懺悔しています。)

 

なので、誓いました。

「もう過食嘔吐はしない」

生まれてくる子に、こんな異常なことを知られたら困るし、それを良しとして真似されたらそれはもう地獄だし、

生まれてくる赤ちゃんのために、

「もう過食嘔吐とはさよならするんだ!」

そう誓いました。

 

でも、臨月になっても過食嘔吐をしてしまいました。

過食しては、吐きやすいよう腹圧をかけるため、臨月になったパンパンのお腹を押して吐いていました。本当に恐ろしかったけどやめられませんでした。

 

産後にも誓いました。

「もう過食嘔吐はしない!」

でも、里帰りで母親の目があるのにお菓子を食べて吐いて、母親に呆れられました。

 

里帰りを終え、元旦那さんの待つアパートへ戻る時にも誓いました。

「もう過食嘔吐はしない!」

でも、

何度となく誓っても誓っても、誓いを破りました。

 

そのまま子育てと過食嘔吐は続きました。

過食は子どもたちが寝てからと決めていましたが、過食のスイッチが入ったら時間なんて流暢なこと言っていられないような切迫感なので、

子どもたちにDVDを見せて集中させている隙に、過食嘔吐していた時も数え切れないくらいありました。

 

運良く、その姿を見せずに済んだかもしれないけど、トイレから出るときの異様な空気は感じとっていたんじゃないかと思います。

いろいろ思い出すと辛くなります。

 

そんな過食嘔吐している親のもとで育ててしまったことで、

今は大丈夫でも、この先子どもたちが摂食障害になる可能性はかなり高いことでしょう。

 

また、親が子に発する言葉というのは本当に狂気になるほど恐ろしくて、

遠野なぎこさんの母親が、なぎこさんに「吐けば太らないからそうしなさい」と言ったことは本当に罪深いことだと思っています。

 

親が放つ言葉は、子にとってとてつもない発信力になります。

親にしてみたら、なんのこともなく放った言葉でも、子どもは傷付き、傷を深めるように自分を責めますし、

 

親の発信力は絶大なので、「吐けばいい」なんてオススメされたら、

それはもう「はい、その通りにします」となるでしょう。

 

私も同じような経験があります。

嘔吐すれば太らないとは知っていたけど、現実にはまだ過食嘔吐を知らない時でした。

 

食べ過ぎて気持ち悪いと母親に訴えたら、「喉に指を突っ込んで吐いたらスッキリするかもしれないわよ」そう言われました。

母親は本当に何の気なしに、気持ちが悪いという私を何とかしたくて放った言葉でしたが、

 

母親に嘔吐を肯定されたのだから、

それはもう「はい、その通りにします」となりました。

 

この時は自発的に嘔吐するなんてできず、結構気持ち悪いまま消化させましたが、

この母親の言葉をキッカケに「パンドラの箱を開けてしまった」のだと思っています。

 

どうすれば、摂食障害が遺伝せずに済むのか。

まだ子育ての最中なので、今後どうなるか分からないので答えは見つかりませんね。

 

また、とりとめのないブログになってしまいました。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

過食嘔吐している矛盾を責めない。感じて潰して強くなればいいだけ。

先日、私が勤務している特別養護老人ホームに新しく入職された女性の介護職員さんとご利用者様の食事についての話をしていましたが、いつの間にか、

 

「私たちだって食事は大切よね」

「動く(活動する)って大切よね」

「私たちも健康でいないとね」

 

というような話でちょっとだけ盛り上がりました。

 

その職員さんは恐らく50代で、健康を気にする年齢だということもあり、

職場まで50分徒歩で通勤していると言い、

介護職だから腰を痛めないようにストレッチは欠かさないと言い、

食事が身体を作るんだから自炊を心掛けている

と言い、

 

確かに、

とてもスレンダーで、

背筋はピンとしていて、

随分健康意識が高い方だなと思って話をしていたのですが、

 

数日後に、その職員さんが喫煙所でタバコを吸っているのを見かけて、

「そんなこともないんだ」

と思うようなことがありました。

 

また、

一緒に働いている管理栄養士さんにしても、

散々、委託給食会社さんの不満を口にしてくるので、「委託先を変えてもらいたいって施設長に相談してみてもいいんじゃない?」と持ちかけると、「いやでも、何とかやっていけばいいかなって思う」と言うので、

 

「だったら延々不満を垂らすなよ」

と思うようなことがありました。

 

こんな矛盾だらけの言動や行動って、私もモチロンしていることで、みんな誰もが日常的にしていることだと思っています。

 

日常的すぎるから、多くのことが気にもせず支障もなくスルーされていると思うのですが、

 

「あれ?さっき言ってたことと違くない?」

「え?やってることおかしくない?」

 

それって矛盾じゃね?って浮きだって感じる時だけ、「矛盾」という違和感を抱くんじゃないかと思います。

 

先の職員さんにしても、

全体像として捉えた姿からかけ離れた喫煙するという事実が目立ち、矛盾を感じたのでしょうし、

 

これが、職員さんと同じように、そうは言ってもタバコはおっけーという健康観だったら、喫煙なんて目立つこともないから矛盾なんて感じないわけでしょう。

 

一緒に働いている管理栄養士さんにしても、

私としては不満ばかり口にするんじゃなくて、解決する策を話し合いたいと思うし、

それができないなら思っていても黙っているべきだと思っているので、

彼女の発言が目立ち、矛盾を感じました。

 

これが、彼女と同じように「そうだよね〜最低な会社だよね〜」というような会話を広げていきたい人なら、彼女の言葉に矛盾を感じないでしょう。

 

私は過食症だった頃、太りたくないのに食べては吐いてという、そんな矛盾した行動をずっと繰り返していました。

 

食べたものを吐くくらいなら食べるな

 

そばにいる人は、

食べたものを吐くなんて常識的におかしいこと、あり得ないことだと思っているので、

明らかな矛盾を感じて不快に思い、そう指摘するかもしれませんが、

 

指摘された方も、

食べたものを吐くなんて常識的におかしいこと、あり得ないことをしていると自覚しているし、切実にこの矛盾をどうにかしたいと思っていることで、

 

他人が抱く矛盾と自分が抱く矛盾とが完全一致して、自分を追い詰めるように責めました。

 

制御不能な食欲にどうしたって太刀打ちできない、実際のところ降参して従わざるを得ない状態なのですが、

矛盾している自分を受け入れることなんてできなくて、常に矛盾している自分を責め続けるので、とても苦しい思いをしました。

 

「わかってるけど直せないの!」

「もうお願いだから放っておいてよ!」

追い詰めてくる自分に対して言っていました。

 

けれど、

過食症を越えて歳を重ねて周囲を見渡すと、世の中矛盾だらけだなと感じます。

 

多くの人が秩序正しくブレなく通っているように感じることでも、

少数の人がそこに矛盾を感じることもあるし、

 

誰もが納得するような事柄のように演出して見せて、実は矛盾だらけなこともあります。

 

例えば、

SDGs持続可能な開発目標が掲げられましたが、現状その目標達成にはほど遠いと言われています。

 

表向きガバナンスの強化をうたっていても、実際には劣悪な労働環境なんて、いくらでもあると思っていますし、

 

嫌な言い方ですが、そんな労働環境で働かされているような人たちがいるから、じゃんじゃん物が生産されて私たちは格安で物を買うことができ、経済が回っています。

 

現実と理想が大きく乖離したSDGsの目標は、矛盾だらけなわけですよね。

 

また、

時代の違い、文化の違い、それに伴い作られていった個人の価値観、

宗教など何らかで繋がれた集団に属するなどで作られた個人の価値観、

 

秩序正しくブレなく通っていることが、

時代や文化、属する集団の違いによって、

筋が通っていない、矛盾していることに変化することなんて、考えてみれば当然のことです。

 

戦後貧しい時代にあった、

生きるために食べるという意味合いから、

飽食の時代に移り変わり、

 

食べるものに溢れ、楽しむために食べるという意味合いが色濃くなってきたことで、

大食い番組がパフォーマンスとなり、食べ物を粗末にしている、フードロスに反しているなんて意見は少数なのでしょう。

 

食べたいけど太りたくないため過食嘔吐するように、

健康意識が高くてもタバコを吸うように、

不満を口にするのに結局それを受け入れるように、

矛盾の程度(多くの人が抱えているかいないか、多くの人に影響を及ぼしているか)の差はあっても、

欲や情動に動かされるのが人間です。

 

私たちは常に矛盾あることと同居しながら生きていて、

矛盾を抱えていることが人間らしさだとも言えるのだと考えれば、

 

私たちは矛盾があってもいいわけです。

人間だから。

 

自分にある矛盾を責めたくなる時もありますが、責めるのではなく、感じることが大切なんだと、過食症だった当時を振り返り思います。

 

自分を責めても、良いことなんてひとつもありませんでした。

感じるだけで、良かったんです。

 

自分にある何らかの矛盾を感じて、それを潰していくことで、人は強くなる。

それが必要なだけなんです。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

「食べることが大好きなんです」という言葉に詰め込まれる現代人のいろいろな感情。

「食べることが大好きなんです」と言われる人や、芸能人がいますが、

 

その言葉を聞いて私としては、

1日、1週間、1ヶ月間、1年間生きているうち、

「食べることが大好きなんです」と口から出るような状況なのだとしたら、

「え?なんか違うよね?」と違和感を持ってしまいます。

 

何故「え?なんか違うよね?」と違和感を持つのかというと、

シンプルに、食欲は、睡眠欲、性欲と同じで人間としての「本能」だからです。

 

本来人間「食べることが大好き」って思っていないといけないわけですよね。

食べないと生きていけないわけですから。

そう感じるようなデフォルト設定だと思っています。

 

睡眠にしても、眠って休息をとらないと生きていけないので、眠気を誘って眠るように仕向けるデフォルト設定があるわけです。

 

性交は、私たち人間という種族が生き残るために必要で、行為の際気持ち良いと感じるデフォルト設定をもたせることで、種族の繁栄へと導きます。

 

「食べることが大好き」という思いは、生きていくために必要な感情であって、とても原始的で単純な感情です。

 

その原始的で単純な感情「食べることが大好き」を堂々と答えている人を見ると、

この楽しいことで溢れているように見える豊かな日本ですが、

 

大好きなことってこんな単純なことになるのか?

他に大好きなことって言えることはないのか?

楽しいの選択肢がどれだけ多くても、一周回って食べることに戻るのか?

 

そんなことを考えてしまいますし、

「え?違うよね?本当は他に大好きなことあるよね?」と聞きたくなります。

 

人によっては、その「食べることが大好き」の先頭に

「友達と」「彼氏彼女と」「子どもと」など付くことで、

「食べることが大好き」が成り立つことも多いのかなとも思いますけど(ワイワイするのが好きで、ひとりで食べると大好きにはならないなど)、

 

デパ地下もなんたらヒルズも駅ビルも、スーパーもコンビニも、インスタも、TikTokも、グルメネタで溢れていて、

新しい食べ物、バズったものへの好奇心や食べておかなきゃ感が先行していることも多いんじゃないかと思っていますし、

 

「食べることが大好き」は本当のところ付属の意味合いやまとめた言い方であって、

原始的で単純な感情が、バズりとか承認欲求とか現代特有の感情と交差して、

「大好き」「楽しい」になるんだろうなと思えてきます。

 

そう考えると「食べることが大好き」は多様性があって便利な言葉ですね。

 

「食べることが大好き」の1文の中に、食欲を始め、愛情や好奇心や見栄や承認欲求や癒やしなど、たくさんの感情を詰め込むことができますから。

 

食べ物や食べることに対して、

個人個人思い思いの感情を詰め込んでも、食欲という本能は共通しているので、

誰でも最後は「おいしかった〜」と

「食べることが大好き」で共通意識でまとめられることは、

食べ物や食べることが絶えず大きな喜びと経済効果を生み出す仕掛けかもしれませんね。

 

ちなみに、

摂食障害過食症の人も例外なく「食べることが大好き」ですが、

「食べることが大好きだけど怖い」と複雑な感情を抱いています。

 

いつ制御不能な過食スイッチが入るか緊張しながら食べるし、

食べることに不安が強い過食症の人は、食べ物や食べ方などにマイルールが存在すると思うので、他人と一緒に食事をすることはルール遂行の邪魔でしかないため不安で恐怖なのです。

 

また、過食症の人は食べることに執着がありますが、それは執着の裏に恐怖が存在するからです。

好きな人に浮気されないかと不安があると、好きな人を必要以上に監視して執着してしまうのと同じです。

 

摂食障害の人は、原始的で単純な感情を素直に「大好き」と受け入れることができない複雑さを抱え苦しんでいます。

 

好きな人を始終監視している様は異常で、傍から見るとあえて嫌われるようなことをしてるよねと思うけど、自分が納得するまで監視せざるを得ない感じで、

わかっているけど不安だから疑うことをやめられず信じられないのです。

 

「食べること」も「大好き」という感情も、孤独や不安や恐怖といった感情も詰め込まれるので、

その言葉の裏側は、実にいろいろ複雑だなと感じます。

 

とりとめのない話になってしまいました。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

この仕事「向いてないとわかった」が消化された摂食障害の社会復帰。

深刻な人材不足は2024年の宅配業界に限らず、様々な業界でも起きていることは、ファミレスの配膳ロボットの普及やコンビニの自動精算機などを見れば一目瞭然です。

 

新しいものが世の中に現れてきたと思ったら急速に浸透して、今となってはロボットを見ても新しいとも珍しいとも思わない「かわい〜」くらいで私たちは簡便さを受け入れるのはとても得意です。

 

さて、私が働く特別養護老人ホームでも慢性的な人材不足ですが、ここにきて、慢性的に輪をかけたような人手不足が生じてきています。

 

また、入居者様に食事を作って出してくれる委託給食会社さんも同様に、慢性的な人材不足に輪をかけるように人材不足が生じてきています。

 

介護ロボット導入まではまだ時間がかかるようですね。

調理師の代わりは既製品を温めて提供するだけになるでしょうね(実際、食材から作る作業を省いた「クックチル」を導入している施設も増えています。)

 

この人手不足の打開策の1つとして、

摂食障害や心の病気で働けない人、障害を持つ人を就労までサポートする事業が注目を集めてきているようですが、

 

私も20代の若い頃、働けない時がありました。

 

東京リベンジャーズばりの本物のヤンキーがウロウロしていた底辺の高校を卒業するときには、母親と同じ看護師になろうと思っていましたが、当然のことながら私のアタマでは無理でした。

 

働きながら准看護師の資格を取ることも考えましたが、准看護師上がりでその後苦労して正看護師となった母親の強い勧めもあり、正看護師の学校を目指すために予備校に通うことにしました。

 

1年後、県立の専門学校に入学することができましたが、あと1年で卒業という3年生になった時に中退しました。

理解してもらえる人がいるかわかりませんが、「向いてないとわかった」「人のお世話が嫌だとわかった」この一言が中退した理由でした。

就職する時にもどんな時だって印象が悪い理由で、面接なんかでは作り話をすることになるんてすけど、

 

「向いてないとわかった」そのことを続けることが不毛でしかないと理解できる人には通じるのでしょうけど、一般的にいったら「根性なし」だなぁと思いますものね。

 

「続けることに意味がある」とか「続けていれば見えてくるものがある」なんて押し付けてくるような人には理解できないと思います。

 

「向いてないとわかった」ことを「続けられない人」と、

「向いてないとわかった」ことでも「続けられる人」と、

「向いてないとわかった」とか「向いている」とか「感じない人」とがいて、

 

「向いてないとわかった」ことを「続けられない人」には、

それを「続けること」は死にながら生きることと同じです。

不毛なので。ひたすらエネルギーを消耗するだけで得るものがゼロなので。

 

それでも当時、その不毛だということを確信持って発言することはできず、

不毛だと分かって中退しても、看護学校を辞めたことは、当時私の中で大きな大きな後悔でした。

 

県立とはいえ、親にも負担をかけてしまったこと、期待を裏切ってしまったこと、

けれどもそれ以上に自分を苦しめたのは、宙ぶらりんの無所属の自分でした。

 

先がない。勢いで学校を辞めても夢も希望も何も持っていない。

そんな宙ぶらりんの無所属の自分を痛めつけるように、過食症は酷くなりました。毎日毎日食べては吐いていました。

食費だけを潰し実入りがない自分はこの家にいてはいけないと、ぷらぷらと不動産会社を連日回っていた時期もありました。

 

働けませんでした。

 

アルバイトでも、働くことが怖かったのです。

 

まるで自分に自信がありませんでした。

 

看護学校を辞めて空っぽで何も無い自分、何も続けられない自分、過食嘔吐ばかりしている自分、

全てが自分という人間を責めているように感じていました。

 

自分にまるで自信がないと、社会は脅威でした。痩せている身体を持っていても、当時は脅威でした。

 

過食嘔吐が止まらなくて、何とか過食嘔吐を辞めたいとクリニックに通ったり自助グループに通ったりしながら、かれこれ1年弱の間、親に食べさせてもらっていたと思います。21歳くらいの時でした。

 

けれども、

やっぱり時間って流れているんですよね。

タイミングがくれば動くんです。

 

このままじゃダメだと思えた時がきました。何かできることからしないとダメだと思いました

1日だけの単発バイトをしました。

行動できる時は、本気なんですよね。

 

スーパーのお酒売り場でビールの試飲販売をするバイトです。

今でも覚えています。声を張ってめっちゃ頑張ったので笑

間隔開けて3回くらい単発バイトしたと思います。

 

これが、この3回くらいが自信につながったんですね。

 

この後、某有名洋菓子店のケーキ売り場で週4日のアルバイトを、2年近く続けることができました。少額ですが家にも食費を収めることができましたし、

このバイトで貯めたお金で、後に県立の栄養短大に通うことができ、栄養士免許を取得することができました。

 

当時抱いていた看護学校中退という負い目も、

「向いてないとわかった」という自分の気持ちも、完全にとは言えないけど、ここである程度消化されたような気持ちになりました。

 

(1年弱も仕事せず家で食べて吐いている娘を、よくぞ親は放っておいてくれたなと感謝しています)

 

働けない時があっても、宙ぶらりんで身動きできない時があっても、焦ることないと摂食障害の人には伝えたいです。

自分のペースでちょっとずつ社会と向き合えばいいわけです。

 

今は、SNSでも社会とのつながりのように捉えられていると感じますが、

これって何度か考えていますが、難しい問題ですよね。

バーチャルはつながる広がると考えることもできるけど、リアルからの逃げ場とも考えられるためです。

逃げ場として同じような悩みを抱いている人と出会うと安心するとともに、相手が倍加した悩みを抱えていた場合、それに引っ張られる危険があります。

 

SNSで共感してもらえる相手を見つけることも、場合によっては必要なことかもしれないけど、

社会復帰を本気で早期に考えている人は、社会復帰事業を利用してみるのも、社会とつながる訓練の場として良いのかもしれません。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。

 

摂食障害から解放されるためには「自分を知る」ことが必要。

摂食障害から解放されるためには、

「自分を知る」ということはとても大切になります。

 

摂食障害になる人の多くが自分と他人とを比較していて、自分らしさが置いてぼりになりがちです。

 

しかしながら、自分を知るためには他人との比較も必要なので、

摂食障害の人には他人との比較がプラスにもマイナスにも影響するということになります。

 

自分を知るための策は他人との比較の他にも、

自分の良いところ悪いところを挙げるとか、自分の好きなこと、やっていて楽しいことを挙げるとか、

自分という人間を少し客観視するような作業として、私も散々箇条書きにしてノートに書いてきました。

 

でも、自分の良いところを挙げてノートに書いたとしても、それを見返すことなんてなかったし、

やっていて楽しいことなんて今自分の首を締めている食べることだったし、

 

「生まれ変わろう」みたいに思って定期的にノートに書く日はやってきて、「生まれ変わろう」と思っているからノートから一新したくてわざわざ買ったりするんですけど、

 

まあ生まれ変わっては即死んでといった感じで、瞬間瞬間で終わりましたね。

 

だからというのはナンなのですが、

「自分を知る」ためには、

「生きる」しかないんですよね。

 

場数を踏むしかなくて、辛い時期をひとつひとつ越えていくしかないんですね。

 

摂食障害を加速させること、

他人ともう散々比較することしかなくて、

「自分を追い詰めて追い詰めて、見えるものを知るしかない」

人によっては場合によってはギリギリな感じなんだと思います。

 

優しいこと、綺麗なことを並べ立てて、

「そのままでいい」「無理しなくていい」といった考えで摂食障害を捉えるのは、私は違うような気がしているので、

 

他人との比較以外の、生きる上で浮上するハードルや問題にしても、

「目の前に茨の道が現れたら挑んでみて、ダメそうならとっとと逃げる」ことが最良だと思っています。

 

チャレンジはして場数を踏んで、

イケそうなら突き進む、

ダメそうなら逃げる。

 

クリアすることが目的ではなくて「自分を知ることが目的」です。

 

自分には何が合っているか?何がハマるのか?

それを探るためなので、ダメそうならとっとと退散する。

 

退散したことで自分に合わないものがわかるので十分な収穫です。

逆にやってみたらハマったというものもあるかもしれません。

 

私は過去を遡ると、本当にいろんなことが勢い優先の行き当たりばったりで、どんぶり勘定で事を進めていくので、

だからなんでしょうね、計画性がないから、家庭にしろ仕事にしろいろんなものが中途半端で歪みあるものばかりですが、

 

それが「私」で、

常にジタバタしなきゃいけない自分が、ここから先、またどんなジタバタをみせてくれるんだろうと楽しみにしているくらいです。

 

優しいこと、綺麗なことを並べ立てて、

「そのままでいい」「無理しなくていい」のまま従えば、自分を知る材料が得られないですよね?

 

摂食障害になったのは何故かといえば、

人生に迷っているためです。

 

迷子になった自分を助けてくれるのは子どものときだけです。

 

大人になったら自分で抜け道を見つけないといけません。

それが迷子になった大人のすべきことだと思っています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

自分の人生を傍観するのではなく、自分の人生の当事者となる。

新年の幕開け、元旦から能登半島地震、翌日は羽田空港での衝突事故という信じられないニュースが飛び込んできました。

 

亡くなられた方の御冥福と被害に遭われた方が一刻も早くこれまで通りの生活に戻ることを願うばかりです。

 

今回のような震災、避けようもない災害が起こるたびに「明日は我が身」だと思います。

 

今回の地震が天災だとしても、人工地震といわれる人災だとしても、

現実に起こって被害が出てしまえば、ましては被害者となってしまえば、

そんなことは、命の危機・不衛生な環境にさらされている現地では、現時点もうどっちでも良いわけで、

 

そんな天災にしろ人災にしろ、

大勢の命が奪われるような現実を「私たちは阻止することができず受け入れることしかできない」ということだけは確かです。

 

私は神奈川県に住んでいるため、阪神淡路大震災東日本大震災も今回の能登半島地震も、直接的に被害にあっていないのですが、

 

被害にあっていない側からしても、

こんな事が起こると命の大切さを痛感するし、平穏な日常がどんなに幸せなのか思い知らされます。

 

若い頃は大変そうだなと他人事で見ていたものが、歳を重ねるにつれて他人事ではなくなっていくのは、私だけではないと思います。

 

人生経験が他人の痛みを理解する人間性を備えさせ、

自分の周囲にいる人はもちろん、自分と直接的に関わらない人(例えば宅配業者の人とか)が欠けただけで、

自分の世界はそれまでのバランスを保てなくなるということを理解することは、人間力を育てるのだと思います。

 

社会で生きていく人間は、どうしても社会と相互に影響を受けるので、ひとり勝手に生きていくことはできないのだと感じます。

 

今回の能登半島地震も、テレビ画面や動画に映る風景に驚愕し、画面越しでも直視するのが憚れるほどで、

 

それを見ている限りにおいて、

過食症やダイエット信者のような

「痩せたい」とか「太ってはいけない」とか、贅沢なことを考える余地は全くもって発生しないことでしょう。

 

東日本大震災当時の話ですが、

私はまだバリバリ過食嘔吐しており、結婚もしていて、子育て専業主婦でした。

 

普段は子育ての合間をぬって過食嘔吐していましたが、震災からしばらくは、被災した方に申し訳なくて過食できませんでした。

 

しかし時間が経過するに従い、実際自分の身に起きていないことは都合よく外側へ追いやられていくもので、辛く苦しい映像もあえて見なくなるもので、

 

更に、

当時の旦那さんが震災から程なく被災地の復興支援へと出張し、しばらく子どもたちとの3人暮らしになったこともあり、気軽に過食ができる環境が整っていったことで、

 

再び過食へと誘発されていきました。

 

「痩せたい」とか「太ってはいけない」とか、贅沢なことを考える余地は全くもって発生しないのは、

それを見ている限りにおいて、

つまりは、「命の大切さを痛感する期間」においてであって、

 

過食症にある人が、命の大切さが平穏な日常と同じように当たり前にあるものだと認識してしまえば、

食べ物があるのにあえて食べない、食べ物を食べては吐き出す行為を、いとも簡単に呼び戻せてしまいます。

 

食べて吐く行為はそれがいくら切羽詰まっていても「豊かさの象徴」であることは間違いなくて、

言い換えれば、「豊かさを失えば、行為をする手段を失い、成す術がなく消失する」ということでしょう。

 

東日本大震災後に自分の過食症が復活したことは、自分なりにショックだったことを覚えています。

 

「同じ日本で被災して大変な人がいるのに私は過食するのか」

という自分に対する落胆とともに、

「もう何日も過食していないのだから、この震災を機に、自分は過食症から抜け出せるのではないか」と期待していたためです。

 

振り返って今言えることは、

 

自分が傍観者でいては事は動かせないということです。

自分が当事者となった時にようやく事態を動かすことができるのだと思っています。

 

この当事者とは、震災に遭うということではありません。

 

自分が「自分の人生を傍観するのではなく」、

自分が「自分の人生の当事者となる」ということです。

 

「自分が主体となって人生に向き合うこと」を意味しています。

 

過食症は自分に絡みついてちょっとやそっとじゃ引き離せません。自由に生きることを阻ませているのは他ならない「自分自身」です。

 

でもこれ、そんなの分かってるよと言われるでしょうし、分かっていてもできないと言われると思っています。

 

私のプライベートなことなのですが、

東日本大震災の年、今年の漢字に「絆」が選ばれたほどに「家族の絆」を再認識させるような年になったわけですが、

 

先ほど書いたように、私の元旦那さんは東日本大震災の被災地に出向いたこともあり、

もう既に夫婦として生きていくことに悩み始めていた時でしたが、こんなに頑張って働いてくれてる人なんだから、もう一度家族としてやっていかなくちゃと思った年でした。

 

けれども、そう思えたのはこの年だけで、翌年にはやっぱり無理、離婚したい離婚したいと再燃しました(非情な人間なのかもしれない)。

離婚したいと思うだけ、仲良し夫婦を羨むだけ、独身者を羨むだけの主体的に動かない人生の傍観者に舞い戻りました。

 

絆だなんだと環境に巻き込まれても、何年も蓄積した離婚したい気持ちが一掃されるはずはなく、

「自分自身が本気でそう思わなければ、やっぱり元の場所に戻ってしまうんだな」と感じました。

 

過食症にしても一緒です。

 

頑固に絡みついたものを引き離すのは、「人生を自分主体で変えていくような覚悟」や「タイミング」が必要なんだと感じます。

 

過食症の時期は自分を探している時で、弱いようだけど過食嘔吐を武器に(太らないでいられる、ストレス解消できる)社会に向き合ってなんとか強く生きられる時でもあります。

 

人生に訪れる問題は過食症だけじゃなく、

人生の傍観者でいる忍耐の時期もあるし、

今回の震災のように命を揺るがすような事態に巻き込ませることもあるけど、

過食嘔吐に何度自分に失望しても、どんな事態に見舞われても、

「諦めたくないとがむしゃらにでも生きる覚悟」は生死を分けるくらいに大切だと思っています。

 

諦めずに生きていけば、いつか自分という人間の薄い輪郭を捉える時が来ます。必ず来ます。

そこから、輪郭を太くなぞるために動き出すことができるはずです。

 

(ちなみに、拒食症時期は自分探し迷路の前段階なので、うまく過食症に転じることが最善のパターンではありますが、

命の危機に陥りそうな危うさがある場合、周囲の人が適正な医療機関に連れて行くことが求められます。)

 

人生を自分主体で自由に生きていけるのも、平和や安全あってのことです。

 

「明日は我が身」だと感じるので、

綺麗事ではなく、どんな形でも、この自分の今の豊かさをほんの少し差し出すことが、

今の自分の心情に相応しい行動であるように思っています。

 

被災者の方には、1日も早く温かい場所で安心して眠れる日が訪れるよう願っています。

 

今年初めてのブログになりました。

今年も読んでいただける方に感謝いたします。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

「拒食症と過食症」そんなどうしようもない生き方もある。

2023年の今年、

何でも白か黒かハッキリさせたい人と仕事をすることがあり、そういえばという感じで思い出したのですが、

私は若い頃、何でも白黒ハッキリさせたい、グレーなんてあり得ない人間でした。

 

好きなの?嫌いなの?

やるの?やらないの?

食べるの?食べないの?

 

その白黒ハッキリさせたい

食べない極みが「拒食症」で

食べる極みが「過食症」でした。

 

白と黒という端から端の二分割しかない極端な思考は極端な行動を生むものだと思うような実体験でした。

 

拒食症当時、

心身ともに受け入れるのは1日500キロカロリー程度の食事『全粒粉パン、ちくわ、チーズ、インゲン』で、

毎日毎日自分が良しとしたこれら食材を食べ続ける拒食をしていました。

 

過食症当時、

このチョコレート1つだけと口に入れた途端に、ブチッと何かが外れると同時にスイッチオン。

これまで禁食としていたスイーツやパンを口に放り込み、お腹がパンパンになるまでやめられない、やめたいのならお腹をパンパンにするしか方法がない過食をしていました。

 

この二分割の端っこに在る時はエネルギーを消耗するので生きていきにくくなると感じます。

 

極端な寒さも極端な暑さも身体に負担を強いるように、

 

植物に水が与えられないと干からび、

植物に水を与えすぎると腐るように、

 

貧困が過ぎれば飢餓となり、

栄養が過ぎれば肥満になるように、

 

極端な現象は短期間であればなんとかなったとしても、それなりの時間それを守っていくことは、

「エネルギーを消耗させる」か、

「エネルギーを蓄積させた後に蓄積が過ぎた末に消耗する」か、

 

パターンとして違いがあるだけで、結果的には「エネルギーを消耗させることに違いはない」と思っています。

 

私はこの二分割の端っこである拒食症だった時に、痩せることにとてつもないエネルギーを費やしていた自覚があります。

 

考えは痩せることに始まり、痩せることに帰結するといった感じでした。

 

四六時中痩せることを考えていましたし、

当時の私の世界は自分しか登場人物はいないというくらい自分に没頭していました。

 

あんなに自分勝手に自分のことだけで完成されていた世界を経験することは、普通に暮らしてきた人はそうないことだと思います。

 

引きこもりの人たちも、きっとこんな感じなのかなと想像しますが、引きこもってしまう人は葛藤があるかもしれませんね。

 

引きこもってはいけない、社会参加しないといけないと理解していても、社会に出られない自分に激しい葛藤を抱くと思います。

 

拒食症は「太ってはいけない痩せなくてはいけない」という「自分の中の強迫観念のような信念」があるので、恐らく社会とのズレみたいな葛藤は生まれないので、

拒食症に在る時は痩せなければいけないことに一喜一憂し命を削るけれども、

一直線に痩せることへとエネルギーを消耗できるので、ある意味居心地は良いのだろうと思います。

 

普通や標準から逸脱した二分割の端っこは、エネルギーを物凄く消耗させますが、

「そんな生き方もある」ということで、

私は「拒食症や過食症になってしまったのなら仕方ないじゃないか」というスタンスです。

拒食症や過食症にならない予防対策は考えていません。

 

もちろん、拒食症で死んでしまう人は実際いるし、拒食が原因で不妊症になる人もいます。

必須な経験なんかでは全くもってないのですが、

 

「現代病のような摂食障害」を阻止しようとしても、それは難しいと思っています。

 

個性や多様性と言いつつも、やっぱり量産が圧倒的多数で優位、自分と他者を比べるツールが手元にあって、衛生的な環境で物質面でも豊かで、精神的に鍛えられる場が少なくなっているこの日本で、

「未熟であるが故、摂食障害になるのは仕方がない」と思っています。

 

摂食障害になる時は「アイデンティティに迷っている時期」だと感じます。

 

「己という存在は?」

この大きな壁にぶち当たっているのです。

 

アイデンティティを確立する時は、中途半端さに揺れ動く時です。

フラフラと本当の私はどこにいるのか探します。

 

本当の私はこれ?

それとも昨日の私?

違う◯◯ちゃんと一緒にいるときの私?

 

「本当の私はどの私も本当の私」なのですが、

 

「限りなく私である私で在りたい」

「私がこれが本当の私だと心の底から納得できる私で在りたい」

そう思っているのが摂食障害に在る時です。

 

考え方も、

私に拘るあまり、

「私」か「私じゃない」か、

白か黒か二分割に偏りが出てくるのが摂食障害の頃だと思っています。

(思春期を過ぎてもアイデンティティに迷い摂食障害に陥る人もいます。)

 

現在の日本において、いつ誰がなってもおかしくないのが摂食障害です(特に女性)。

 

不安定ながらも平和な時代でも、

のらりくらり生きていられない人がアイデンティティを確立するために必死でエネルギーを消耗させて、自虐的に自分を追い込んで自分を知っていく。

アイデンティティを確立するための手段が拒食や過食だった」

そんなどうしようもない生き方もあるということです。

 

二分割の端っこは、拒食症に限らずどんなことでも孤独な世界なのですが、

そうは言っても、断絶され切り離されているわけではありません。

グラデーションでつながっているようなものです。

 

拒食症のような飢餓状態が真っ白であれば、

高度肥満が真っ黒という感じで、

その真ん中にいわゆる標準や普通とされるグレーがあるのでしょう。

 

エネルギーを消耗しすぎて病院行きになれば、自分だけの真っ白い世界から強制的に脱することで、

真っ白の足元が、ほんの少しだけグレーを帯びた足元に変わるかもしれません。

 

己という存在は、

「限りある命を与えられた」地球上の生物であると理解できれば、

真っ白い世界に戻るようなことはないような気がしています。

 

生きていれば、社会生活を送っていれば、

白か黒かという場面は短期間でしか有効性を認めないように感じます。

 

買うか?買わないか?

合格か?不合格か?

始めるか?終わらせるか?

 

白か黒か決定した次の瞬間には、

ローンの支払いが生じたり、また購入先を探し回ったり、

黒から白か迷いながら将来に向けて歩くことは変わらず、

人間の基本的な定位置はグレーであるのだと感じます。

 

拒食症になってしまったら、もうそこが二分割の端っことして行き止まりなわけですから、気が済むまで思う存分滞在して、定位置に戻るチャンスを待つしかありません。

行き止まりの先へ行ってしまえば色はないのですから、引き戻してもらえる人が周囲にいることはとても重要になります。

 

人間の定位置は「人と人とが交わる社会」です。

白の人黒の人が混ざり合うことで、どちらかに偏ることなくグレーを作り上げているのが社会です。

人は1人では生きていけないと言われることそのままに、

私たちは思考も行動も、常に様々混ざり合うグラデーションの中を生きているのでしょう。

 

今年最後のブログになりました。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。