実体験より・・・やせ細る弱々しさは表面的なもの。拒食症には強い欲がある。

私は高校1年のときにダイエットを始めて、それをキッカケとして拒食症になりました。

 

厳しい食事制限、毎日の筋トレ、雨の日でも欠かさない毎日のウォーキング、

生理は止まり、肝障害を起こすまでの徹底したエネルギーは

「バカにしてきた奴らを見返してやる」

という醜くも人間らしい感情からでした。

 

昔から友人という存在とは縁遠く、小学生・中学生と仲良しの女子はただ1人でした。

小学生の頃は男子と缶蹴りばかりして女子とつるむことはなかったため、いじめまがいなこともありましたが、そういうことが普通の時代でもありました。

それでも仲良しの彼女だけは、私と一緒に遊んでくれました。

 

中学生となり、大人の感情が芽生え始めて男子と缶蹴りをすることも関わることもなくなりました。

 

孤独すぎる中学校生活の中で、仲良しの彼女だけが私と一緒にいてくれる唯一の人でしたが、

 

彼女の視線が私をバカにし始めた(ように感じた)のは、中学に入ってすぐのことでした。

 

登校中、隣に並んで歩いていた彼女が、立ち止まるくらいに急に歩く速度を落とすので、彼女がいなくなったと振り返ると、私の脚をじっと眺めているので、私は不快でたまりませんでした。

自分が太っているとの認識はありましたが、この時から脚が私の1番のコンプレックスになりました。

 

中学生の私は太っていました。

身長154cm、体重58kgほどでしたので、BMIは24で肥満の一歩手前でした(BMI25以上で肥満域)。

一方の彼女は細身だった小学生の頃よりだいぶふっくらしてきて、思春期の女子らしい丸みのある標準体型でした。

 

彼女は毎日、私の脚をじっと眺め、その後は視線を真下に下ろし、彼女自身の脚を眺めていました。

時間にしたら15秒もなかったかもしれないけど、思春期の繊細な心を激しくざわつかせました。

私はその時間が来るたびに、ただ1人きりの友人相手に怒りが込み上げてきたのを覚えています。同じことをしてやろうかとも思いました。

 

私は彼女ではないので、もしかしたら、彼女は私の脚になんて興味がなかったかもしれないけど、

私としては比較されているような、比較されて「私のほうが細い」と「安心を与える材料」になったような気がして、不快でたまりませんでした。

比べるってとても残酷な作業です。

 

中学を卒業して私は底辺の高校へと進み、彼女は進学校へ進み、連絡も取らず関わることもなくなりました。

 

私が入学した高校は底辺だけに東京リベンジャーズのキャラクターの実写版がウヨウヨしているような高校で、

ミニスカにルーズソックスではなく、肌色のストッキング女子ばかりでアウェイ感しかない高校で、

頭で振り分けられたとしても、私はいわゆるヤンキーではなかったので中学校と同等くらいに居心地の悪い場所でした。

 

今度は私が残酷な比較を始めました。

なんで私はこんな頭の悪そうな人間と一緒にいるんだろう。

「私はこいつらとは違う」と思いました。

 

比較するって、自分の意識が見事に露呈するんですよね。

自分がバカにして見下している存在であっても、自分の比較対象とするのなら、自分はその存在と並んでいる「同等意識である」ということだと思います。

 

人間、自分とかけ離れた存在と比較なんてしません。届かないとわかる異次元のものには興味を示してもそう比較はしないものです。

 

自分の頭脳と、自分の服装と、自分の言動と、

こいつらの頭脳と、こいつらの服装と、こいつらの言動と、

比較して優越をつける作業は、

自分としては比較対象を引き離しているような意識であったとしても、

自分は比較対象としっかり繋がってしまいました。

 

「私はこいつらとは違う」と思う高校で、時折登下校を共にしていた同じ中学出身だった女子には「言葉がキツイから嫌い」と拒絶され、

高校でも相変わらず孤独なポジションの私は、メキメキ「私はこいつらとは違う」を加速していき、

 

色気づいているヤンキーや、私より脚が太いのにミニスカでルーズソックスを履いているクラスメイトや、私よりはるかに脚が細いクラスメイト、

中学で毎日私を安心材料として扱ってきた彼女も、

 

「全員見返してやる」

 

そんな強い感情がダイエットに向かわせ、

屈折して出どころのない感情エネルギーは、ひたすらに痩せることへ向かい、拒食症にまで至ったんだろうと考えています。

 

こうして自分のことを書いていくと、大したことない、なんでそこまで自分が追い詰められたんだろうとも思うのですが、

文字に表せない部分で孤独を感じて、どこにも馴染めない寂しさを抱えていたように思います。

 

ダイエットの動機は人それぞれですが、

ダイエットが病的な拒食症にまで至る場合は、

「出どころを失くした強い感情エネルギーが必ずある」と考えています。

それは共通だと考えています。

痩せ細るからといって弱々しい感情なんかじゃありません。

奥深くに燃えたぎる炎があります。

 

そう考えると、「拒食症は生きることを拒否するようで、実は生きることを強く渇望している」のではないかと思えてきます。

自らの意志で食事を拒否することは、それを貫くための強さやエネルギーがないと決してできないことです。

 

拒食症は、生きるための食を拒む障害ではありますが、それは表立ったもので、

食を拒むその裏側には、「生きることへの強い執着と欲がある」と言えると思います(恐らく過食症以上に)。

 

続く。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。