続・摂食障害は遺伝するのかしないのか?

前回の続きです。

sayosalada.hatenablog.com

そもそも、私が突然変異的に摂食障害になったとしても、

脈々と繋がれてきた摂食障害を持たない私の家系のどこかに、薄っすらと摂食障害となる「遺伝子の種」があったということも、考えられるでしょう。

 

今回は、摂食障害となる「遺伝子の種」となるものを探ってみようと思います。

 

探るにあたっては、私の遺伝子を持つ娘と対比させようと思います。

 

私が拒食症になったのは高校1年の夏です。

ダイエットをきっかけに拒食症となり、続けて過食症となりました。

 

長女は今年高校3年生

次女は今年中学3年生

どちらも多感な年齢で、私の発症年齢からもいつ摂食障害が発症してもおかしくないタイミングです。

 

特に長女は痩せ信者、ダイエット信者で、

「食べたい遊びたい」と「痩せたい可愛いって言われたい」が同居した状態です。

 

ダイエット信者の長女は高校2年生で本格的にダイエットをスタートさせて、元々細かった手足が、更に細くなりました。

 

一時期、「生理がこない」と私に訴えた時期があり、私は「貴方の身体には無理な体重だということだからしっかり食べなさい」と伝えました。

 

長女はそこから徐々に食べる量を増やし、生理が順調にくるまでに体重を戻しました。

 

ここ、ここなんです。

 

この「体重を戻す行動をとれたこと」が

私の遺伝子と違っているんだと感じるところだなあと思うのです。

 

長女は自分の身に起きていることを「これはやばいことだ」と感じることができたので、もっと痩せたいと思いながらも、そこから進むことなく自分の行動を変化させることができました。

 

私はそれができませんでした。

やばいと思いながらも、そのまま突き進みました。

 

私は昔から何でも「過剰にやり過ぎる傾向」があります。

 

例えば、

肩こりがあるからとマッサージをしますが、マッサージって力を加えすぎてもダメなのに、力をいれて長時間にわたり圧を加えてしまいがちです。

マッサージをしてリンパの流れを外側から促すことで肩こりが軽減するのに、圧を加えすぎてひどい痛みが出ることは数知れず。

 

また、歯磨きもやり過ぎると歯茎を痛め、力加減によっては歯肉が下がるのに、複数回やれば綺麗になると思っていた時期もありました。

 

力を入れすぎても意味ないと見て聞いても、「いやきっと念入りにやれば違うだろう」なんてどっかで思ってるんですよね。独自のやり方に振り切ってしまうというか。

 

この「過剰にやり過ぎる傾向」は、向かう方向性によってはすごく有意義なことでしょうが、方向性を間違えると、ただのアホにしか映らないと思えるのは、自分の経験からです。

 

娘たちには、この私のような過剰にやり過ぎる傾向は今のところ見当たらないんですよね。

引き際、切り替えが上手だなと感じます。

 

摂食障害になるような人は恐らく、「過剰にやり過ぎる傾向がある人」だと思いますが、

 

「過剰にやり過ぎる傾向」となるパーソナリティをつくる要素は何だろうと考えると、「完璧主義」なんだろうと思うのです。

 

「完璧主義」な人は、照準を当てたものに対して「自分が描いた世界を徹底して完成させよう」とします。

自分が描いた世界を作り上げるためには、多少強引なことも、一か八かの掛けとなっても厭わないという意識もあると思います。

 

私は頭が悪くて理解が浅く、独自の解釈をしがちでしたが、賢い人でも完璧主義であることで事実にフィルターがかかり、独自のやり方に走るというのはあるんじゃないかと思っています。

 

自分が摂食障害になる前から完璧主義だったのかというと、ハッキリしたことが言えませんが、

ハッキリとは言えないまでも、「幼少期〜学生時代の環境が私の完璧主義を作った」ような気はしています。

 

嫁姑問題があり、幼少期母親と触れ合いたくても、私は祖母と一緒にいなければいけませんでした。

友人もいない孤独な学生時代でもありました。

 

そんな寂しい時に、頼みの綱って「自分自身」だった気がします。

太っていて友達もいなくて頭が悪くて自分が大嫌いなのに、他に誰もいないから、そんなろくでもない自分だけを頼りに生きなければいけませんでした。

 

「自分だけが頼り」なので、その頼りにしている自分が描いた世界を徹底して完成させるよう、「自分に従事していく」ように生きていました。

 

これは、周囲や社会から自分を守るための「防衛」のひとつなんだろうと思っています。自分の描く世界に住むことで、社会や周囲を隔てることができました。

 

ブログで何度か書いていますが、「拒食症の世界は完璧な世界」です。

それは、痩せることに心も行動も矛盾なく生きていられる時だからです。孤独だけれど、自分の世界に閉じこもっていられるので、そこまで苦とは感じないのです。

 

(次のステージである過食症に進むと、こうはいきません。心と行動が矛盾するので完璧な世界ではいられなくなります。)

 

私が突然変異的に摂食障害になったのは、

 

痩せ賛美の時代背景と、置かれている孤独な環境が絡み合い、

 

環境となる土壌と水と太陽のアンバランスによって、完璧主義の「遺伝子の種」が周囲に虫が寄り付かないように過剰に生育してしまったという感じじゃないかと思っています。

 

そう考えると、

摂食障害は遺伝以上に「環境が大きく影響する」ことが理解できます。

1に環境2に環境といった感じですよね。

 

しかし、

飽食の時代、ストレス社会、SNSといった情報社会、これらの社会環境は自分で選ぶことができません。

 

親だって選ぶことができないから、

親ガチャで摂食障害の親が出てきてしまい、外れ。子どもが摂食障害になってしまうこともあるでしょう。

 

逆に、摂食障害の親じゃないマトモそうだから親ガチャ当たりと思っても、こんなはずじゃなかったという展開が待ち受けることもあり、

とれを引いたら当たりかなんて分からないのが現実です。

 

こうならないように注意しても、そっちが抜けてたかということが待ち受けて、どうあっても結局問題が浮上するのが生きることなんだろうと思います。

 

環境が絡み合い、摂食障害になってしまった場合には、悔しいけど悲しいけど環境を嘆いても仕方がないことです。

 

目の前に現れた現実に対して逃げずに対処していくより仕方がなくて、

そうすることで「一皮剥けろ」と「成長しろ」と促されていることだと受け止めるより他ないと思うのは、

摂食障害を克服したからこそ、伝えたい真実です。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。