「思いもよらない展開」が今自分に降りかかってきたのは何故なのでしょう。

先月「え?どういう展開!?」というようなことが起こり、

来週その展開が終息するかもしれないし、

有り難くない広がりをみせることになるかもしれないということで、

 

「思いもよらない展開」ということを、考えていました。

 

「思いもよらない展開」って、小さなことならそれなりに定期的に起こるし、大きなことも長く生きていれば何度か経験します。

 

信じていた恋人に裏切られるのも、

ただのダイエットだったのに、いつの間にか制御できなくなっている自分の過食嘔吐に、引き返せないような不安を感じるのも、

先週の秋田の大雨による天災や災害も、

 

自分の意とは違う方向に転じていくことで、

「思いもよらない展開」だと感じます。

 

そんな「思いもよらない展開」に対して、私たちは無力だと感じます。

視界が揺らぐような、明日からどう生きていくんだと思うような、一瞬にして別次元に連れて行かれてしまうような、そんな不安定な気持ちに陥ると思います。

 

目の前に起こる予期せぬ破壊や揺れを、傍観するしかない瞬間と、その破壊や揺れが鎮まるまでは、私たちは傍観者でしかいられません。

 

破壊を止めることもできない、揺れを回避することもできない、仕返しも反撃もこの時点では効力がなく、ただただ無力で、唯一できることは受け止めることのみです。

 

「思いもよらない展開」の時って、自分だけが明かりが灯らない落とし穴に突き落とされたように感じますし、

その暗い落とし穴に長期間滞在せざるを得ないこともあります。

 

こういう時って、この無力で苦い現実が展開され尽くしていくのを、目を逸らさずに眺め受け止めていくことが必要で、実際の行動としては、本当に時が経つのを待つしかないんですよね。

 

「時が経ち、季節が変わり、太陽の光が差す時を待つ時」あるいは、

「落とし穴を覗き込み、手を差し伸べてくれる人を待つ時」で、

 

「辛く寒い冬の先には必ず春がやってくる」そういうことなんだと感じます。

 

「思いもよらない展開」から目を逸らさず受け止めていくことで、現実を学ぶことができます。

 

天災や災害は災難でしかありませんが、自然によって生かされているわたし達が、そこで何を感じ取っていけるでしょうか?

 

直接被害を受けてしまった人も、ニュースでそれを知る人も、実は同じ自然という大きな環境に在ることを感じ取らなければ、自然は幾度も警告のサインを送り続けることだと思っています。

このことは感覚的で非現実的な考えのようですが、毎年想定外の災害、あり得ないほどの猛暑に見舞われる今の日本や世界全体を思えば、とても現実的なことだと私は思っています。

 

全てではありませんが、降りかかったことは因果応報、自業自得であることが多いと思います。

「個人」という因果応報か、「天災」であれば人間という因果応報か、とても繊細な事ですね。

 

天災や災害に合うと、自然に生かされていることを実感するのではないかと思っています。自然の脅威と恩恵は表裏一体です。

 

「思いもよらない展開」の救いとなるのが

「辛く寒い冬の先には必ず春がやってくる」これは確かなことです。

自然も人間も同じ循環で、焦る必要はないのです。

 

しかし、春を待つ寒い冬に、春の準備をするように冬の期間を過ごさなければ自然の循環の有り難い恩恵は、受けられないように感じています。

 

日本は第二次世界大戦の後に大きな経済成長を遂げてきましたが、もはやピークを過ぎ、今は寒い冬の時期に入ってしまっているのでしょう。

恐らく日本だけではなく、世界規模で寒い冬の時期の過ごし方を模索し、今一度芽吹きの春を迎えるために準備をしなければいけない時なのでしょうね。

 

「思いもよらない展開」が今自分に降りかかってきたのは何故なのでしょう?

何かの警告を示すサインということも考えられます。個人としても捉え方は同じです。

 

春を待つ寒い冬に、春の準備をするように「思いもよらない展開」という課題に対して、答えや考えを模索して過ごしていければ、

いつか暖かい陽の光が届き、春の芽吹きを感じ、自然の循環の有り難い恩恵が受けられるということです。

 

これは「思いもよらない展開」の辛い期間を越えれば再スタートが約束されているようなもの。

 

そう考えて、必要以上に塞ぎ込むことはなく今ある課題と向き合っていきたいなと、自分自身も思っています。

 

今日も最後まで読んで頂きありがとうございました。