私が思う「過食症の克服」と「依存症」について

前回のブログでギャンブル依存症過食症について書き、

依存症は人間の弱さ故の「防御だ」ということも書きました。

 

ギャンブルするお金があったから

食べることはストレス解消だから

セックスするのが好きだから(セックス依存)

 

そんな単純なことで依存症に陥るわけではありません。

 

人間の持つ繊細さ感受性、

それらが強いために、

社会的環境と自分との間にズレを感じたり、フィット感のなさに不安を抱き、

社会と調整を保つために必死にもがいている在り様が依存症だと、私は思っています。

 

社会は自分を歓迎してくれると思える人、自分に自信があり強く生きていられる人には、依存症に陥る人が理解ができないかもしれませんが、

そんな生き方でしか社会に対峙できない人もいるのです。

 

依存症はそんな人間の気質や性格でもあるためか、過食症だけではなく他の依存症を併せ持つ人がいたことを思い出しました。

 

過食症セックス依存症

過食症とパートナーへの過剰な依存

 

2人とも数回通った自助グループで出会い、深い関わりは持たなかったので詳しくお話するまでのエピソードはないのですが、

過食症以外の依存症を持っているということを淡々と語っていました。

2人とも「過食症ともう1つの依存症」という認識を持っていました。

 

セックス依存症の女性は、

セックスをしたいわけではないけど、男性と関わると離れていかれることが不安だからセックスを求めてしまうと語っていました。

「それは自分を虐めてることだよ、やめた方がいいよ」と彼女に言ったことを覚えています。

 

パートナーへの依存があった女性は、

自分は糖尿病1型で(生まれつき血糖値を下げるインスリンの分泌が不足しているため、食後血糖値の上昇を抑えるために一生涯に渡りインスリン注射をしなければいけない。いわゆる生活習慣病の2型糖尿病とは異なります)、

過食したのにインスリン注射を打たず、高血糖で倒れて旦那様に迷惑をかけることをわざと繰り返した挙げ句、とても若い女性でしたが父親のような年齢の旦那様と離婚したと言っていました。

 

何故、2つの依存症が必要になるのかは、

やはり、自分の弱さや繊細な心を過食症だけでカバーすることができないためでしょう。

 

私たちは基本的に、まずは目の前にある、周囲にある社会的環境に合わせて生きるように育てられるし(学校教育など)、

環境から逸脱しようものなら、それが成功者にならない限り、人権ないまではいかないけど、バカにされるような風潮って依然としてありますよね。

 

目の前にあるフィールドで生きていく調整作業のひとつとして、自分を武装して防御しながら生きているのが依存症なので、

1つの防御で不安なら、もう1つ防御が必要となるわけで、複数あることで安心できるのでしょう。

 

どう生きていけばいいのか分からず不安定である時は、少しでも生きていると実感できるような確かなものが欲しくて、すぐ手にできる依存症に溺れます。

 

大量に食べることで解放感が得られ、

自分の身体を差し出して男性が喜べば、自分の存在価値が得られ、

高血糖という自殺行為で男性の気を引き付ければ、自分を心配してくれるという安心感が得られます。

 

しかし、次の瞬間には、

太る恐怖が襲ってきて

喜んでくれた男性はいなくなり

心配してくれた男性は自分をおいて仕事に行く

 

自分はダメな人間だ

自分は愛されない人間だ

迷惑をかけて嫌われてしまった

 

自分が身体を張って求めたものを確かに得られたはずなのに、

不安感や虚無感は倍増して自分を苦しめるようになります。

 

快楽も苦痛も

幸せも不幸せも

生きているという実感を十分に与えてくれます。

 

依存症の人たちは、空虚感を埋めてくれるものを「ただただその瞬間に繋ぎ合わせるようにして」生きています。

 

滑稽なようですが、生きるために必死にもがいている姿なんですよね。

 

そんな依存症の治療法として、

精神療法や認知行動療法薬物療法などあるようですが、

 

アルコール依存症は、一生涯にわたり断酒飲することでアルコール依存症から離脱できる

薬物依存症は、薬物に属するものを一生涯にわたり断つことで薬物依存症から離脱できるわけで、

 

アルコール依存症も薬物依存症も一生涯それを手に取らなきゃいいんだから、治療しやすくていいじゃない」と思っていました。

 

「こっちは過食症。食べ物を一生涯食べないなんてできないじゃん。だから過食を回避するなんて至難の技だよ。」

アルコール依存症や薬物依存症から離脱するそれこそ至難の技だと理解できずに、そう思っていました。

 

過食症の人は普通に食べることもできます。

 

人により程度は違うかもしれませんが、過食症の人がみんな朝昼夕3食過食しているかといえば、そんなことありません。

 

私は仕事が休みになる週末過食が多かったですし、1日に1食とか、1週間に1食とか、過食せず普通に食べられる時はあると思います。

 

普通に食べていたのに急に過食スイッチが入ってしまったとか、普通の食事と過食の棲み分けは神経を使うことだけど、

 

過食症の方が学ばなければいけない重要なことのひとつとして「食べ物を受け容れる」ことがあると思うんですよね。

 

それが、

同じように体内に入れるアルコール依存症や薬物依存症との大きな大きな違いだと思っています。

 

自分で食べること(過食すること)を「選択し決断した」のなら、

「責任を持って」それを消化吸収させなければいけない。

 

自発的嘔吐や、下剤を使って自分のした選択と決断を排除して、「食べなかったことにしてはいけない」ということです。

 

人は「食べなければ生きていけません」。

食べ物を消化吸収させずに身体から排除しようとするのは、「生きることを拒絶していることと同じ」です。

 

本来であれば、

「自分で食べると決めた」なら、「生きる選択をした」のなら、

「自己責任のもとに」全て受け容れなければいけないんです。

 

「自分の選択と決断を受け容れる」

「食べた物を全て受け容れる」

「生きることを受け容れる」

 

何度もブログで書いていますが、

過食症の克服って、そこに到達することだと思っています。

 

過食症と縁切りできる時、過食を克服できる時は、食べると過食の棲み分けに神経を使わないし、過食しないようにと頑張る必要などなくなります。

 

「もう過食は要らない」というように、自然と縁が切れていきますから。

 

過食症の克服までの道のりは、幾つかブログに書いているので、参考にして下さい。

 

依存症の人たちは、空虚感を埋めてくれるものを「ただただその瞬間に繋ぎ合わせるようにして」生きていますが、

 

依存症ではない多くの人たちは、その空虚感の埋め方が瞬間の繋ぎ合わせではないというか、虚無感を「継続してシッカリ埋めるもの」を求めることができるのかもしれません。

例えば、健康づくり、貯金、結婚、信用を得られるような仕事や人間関係などです。

 

依存症の人は長期的に物事を捉えられない傾向があるのかもしれません。

確かに、自分もそんな傾向だった気がしています。

 

だからこそ、

あり得ない程の金額をギャンブルで失うことも可能だし、

アルコールや薬物や過食で健康寿命を縮めて、早くして1人で排泄できなくなって介護される身になることなんて、1ミリも考えられないのです。

まさに「今を生きる」ことにしか集中できないのです。

 

けれども、依存症の人が抱える心理は決して特別なわけでもなく、

誰もが抱えているような不安感や虚無感が処理されず行き場を失い大きく大きく膨らんでしまったような感じだと思います。

不安感や虚無感が目の前に大きくあれば、今しか考えられなくなるのが普通です。

 

依存症ではない人だって、強い人間だって、生きていれば何らかの葛藤を持っています。

多くの人が、社会と自分との間にズレを感じたり不安に思ったり、大きな虚無感を抱く時があって当然だと思っています。

 

依存症の人に投げかける言葉として、

「自分のことばかり考えないで家族のこと考えろよ」「調子乗って今まで好き勝手やってきたから改めろ」「病院へ行けよ」

そう言うのは簡単だけど、

 

じゃあ、そう言う貴方は、

自分のことばかり考えないで家族のことを思っているの?

好き勝手やらないような調子になんてのらない大人しい良い子ちゃんだったの?

本当に貴方はノーマルな人間なの?

そう聞いたら、正々堂々とイエスって答えられる人って少ないんじゃないでしょうか。

 

多くの人が依存症に陥るほど弱くないかもしれないけど、

多くの人が自分に自信なんかなくて、実はアブノーマルなのにノーマルぶっていて、自分を押し殺すように生きていて、

そんな一触即発感のある危うさを抱えているような人が多い、

今ってそんな社会のような気がしています。

 

まとまらないブログになりましたが、興味を持って読んで頂きありがとうございます。

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。