ギャンブル依存症と過食症という依存症

大谷翔平選手の元専属通訳の水原一平さんが「自分はギャンブル依存症だ」とカミングアウトした件についてです。

 

様々な疑惑や騒動は置いておいて

 

水原一平さんとは住む世界が全く異なる接点のない自分ではありますが、

過食症という依存症」だった自分と、過去形ではありますが「依存症」という共通点があり、

自分の思うところを述べさせて頂きたいと思います。

 

先ず、この方も「弱い人」「人生は葛藤だらけ」で相当に苦しかっただったんだろうなと思いました。

 

私たちは常に「何かに依存して生きている」と言われています。

 

子どもが親に依存しなければ生きていけないように、人間ひとりで生きていくことは難しく、何かにもたれかかって生きていくことが自然でもあります。

 

親や配偶者への依存

仕事への依存

宗教への依存

SNSへの依存

 

どこまでが正常な依存で、どこからが異常性のある依存かは、恐らくは「依存する度合い」「依存する強度」で決まるのでしょう。

 

依存症の「依存」の意味をgoo辞典で調べてみると、

『他に頼って存在、または生活すること』と説明されていますので、

 

「他に頼っていないと存在できない、生活できない」という解釈もできるかなと思います。

 

私は過去、過食症という依存症でした。

過食症歴は20年以上になるので、ちょっとハマっちゃったという程度ではありません。ガチの依存症だったと理解しています。

 

過食症を依存という意味に当てはめて、

「過食に頼って存在、または生活すること」

「過食に頼っていないと存在できない、生活できないとい」

と説明すると、

過食症の状態をとても的確に表しているなと思います。

 

依存症はハマったら最後、いわゆる沼なので

それこそズブズブになってそこから出られなくなります。

 

「快楽」を貪るので、その見返りとして「苦痛」がフィードバックするように、

「快楽」と「苦痛」は常に連動し同居しています。

 

どこまでも快楽を求め、必ず苦痛はついて回り、抜け出せない負のループが自身に延々とつきまとい、その負のループを自身も強く感じます。

 

「身体を痛め、心が壊れ、生活や人間関係が破綻する」

そんな正常を逸脱した強度の強い依存が「依存症」であり、

また、そんな現実が襲いかかろうとも「やめられないのが依存症」であり「依存症の恐怖」であります。

 

私は過食症で健康を害しました。

「食べたい」という欲が湧き上がれば、一度も打ち勝つことなどできませんでした。

食べて快楽を得ては、嘔吐して苦痛を味わいます。

自分を卑しく汚く思い自己嫌悪に陥り、また過食に救いを求めるような悪循環の日々が確かにありました。

人間の生きる自然の営みに反しての嘔吐はもちろん、

大量に食べることだけでも、想像以上に身体を酷使します。

 

大量に食べ物が取り込まれれば、大量の食べ物を消化吸収するために、それだけ多くの消化液や消化酵素、消化管ホルモンが働くことになり、消化器系への負担は相当なものです。

負担が負担を呼び、身体へも負のループが波及していきます。

 

ギャンブル依存症は、

身体を酷使することはないので健康を害することはないかもしれませんが、

「生活を破綻させる危険」があります。

 

賭けて得る快楽と、賭けて失う苦痛が同居している負のループによって、

いつの間にか大金を失うばかりか、犯罪まがいなことに手を染め、社会的立場を失い、愛する家族や友人を失うことになりかねません。

 

私はギャンブルをしないので、過食症という自分の依存症経験と照らし合わせてになるのですが、

 

依存症に陥ってしまう「要」とも言える「快楽と苦痛の同居」は、人間が生きていく中で、何とも言えない中毒性で、危うさのある好バランスを含んでいると思っています。

 

例えば、

ちょっと前で言うツンデレがそのギャップにキュンとするのも

帰宅後のビールを美味しく飲みたいがために仕事を頑張るのも

これらはもちろん依存症ではありませんが、

その落胆や苦痛の後の喜びに中毒性を含むため人を虜にさせるのでしょう。

 

依存症に陥ると、

快楽欲しさに苦痛に耐える

快楽に溺れたいがために苦痛を欲する

苦痛さえも快楽になる

 

そんなちょっと異常に感じる、過剰に感じるような表裏一体する中毒性を欲するようになり、

例えば、

ツンデレのギャップ萌えがDVによる共依存へと、仕事のストレス解消がアルコール依存へと行き過ぎてしまいます。

 

快楽を得たいという気持ちが先行し、後の苦痛など都合よく思考外に追いやられ、後の苦痛などなんとかなるように思えたり、後の苦痛が分かっていても快楽を求めるようになります。

また、激しい苦痛を感じれば、その痛みをカバーするようにさらに大きな快楽を求めるようにもなります。

しかし、どうしたって苦痛からは逃げられず必ず現実としてやってきます。

 

依存症の人は苦痛を感じないわけでもなく、どうでもいいと感じているわけではありません。ちゃんと苦痛を与えられ苦しいけど、逃れられないのです。

 

これらの行為は、端から見たら異常で病的だと感じるけれども、

依存症の人の中では「絶妙なバランスで成り立っています」。

 

快楽と苦痛とそれら2つを得られる依存対象があることで、

「生きていられる」「社会生活を営んでいられる」「人と関わっていられる」のです。

 

依存対象は、まさに、

「自分がこの世界でこの社会で生きるための武器」「自分を敵から防御するための鎧」になっています。

 

ここが、依存症の「複雑さ」だと私は思っています。

 

簡単に言ってしまえば「弱い」のです。

 

「裸の自分ではこの社会で生きていけない」と思っているので、依存対象を纏ってベールとして「社会と対峙」しています。

 

鎧は頑丈だからちょっとやそっとぶつかるくらいじゃ破壊されません。

ベールで隔たれていればコロナ禍の時のパーティションのように安心できます。

 

頑丈で安心できれば、生きていけないと思っている社会へも強気で出ていくことができます。

けれども、強気で行けば行くほど、社会からの要求も当然強くなり、壁も現れます。

 

そこで、その要求に応じなければいけない、壁を乗り越えるだけのもっと頑丈な鎧が必要となり、もっと密度あるベールを欲し、依存対象への依存はより激しくなります。

 

より強い快楽を求めるようになり(ギャンブル依存症であれば高額を賭ける)

その振り幅ぶんのより強い苦痛(大きな損失)を味わうようになります。

 

そして、これらは表裏一体、快楽は止まず苦痛はフィードバックするので、グルグルと負のループは終わりを知りません。

そして、ついには身体を痛め、心が壊れ、生活や人間関係が破綻するまでに至ります。

 

水原一平さんは大谷翔平選手の専属通訳として高額な報酬を得ていたと思われますが、恐らくそれをもっと大きくしようというビッグドリームを描いてギャンブルをしたわけではないでしょう。

 

「お金を持つと人間変わるよね」というのも一理あるとは思います、それだけ気が大きくなりますから。

しかし、

「何かに依存しないと社会と対峙できない彼の弱さ」が、ギャンブル依存症を招いた主犯だと思っています。

そこに、多額のお金を持っている持っていないは関係ないのです。

 

順風満帆に見えて、社会での自分の在り方や演出方法に迷い込んでしまったんだろうと私は思っています。

 

過食症も、アルコール依存症も、薬物依存症も、買い物依存症も、宗教への過度な依存も、

現象は違えど依存症というカテゴリーは同じような心理状態にあると思っています。

身体を痛め、心が壊れ、生活や人間関係が破綻するため、適切な介入が必要な病気でもあるのでしょう。

 

私は今でこそ過食症を克服していますが、ここまで来るのに、いろいろな人に迷惑をかけ、いろいろな人に助けてもらいました。

しっかり医療機関にお世話になったわけではないけど、お世話になったことはその後の生活に活かされたと思っています。

 

最終的に依存症を治せるのは自分です。

医療機関にお世話になろうとも、いくら名医に出会おうとも、名医が依存症を治してくれるわけではありません。

闘うのは自分です。

 

治療は長期戦です。

自分の弱さとじっくり向き合い、鎧やベールを外して生きていけることを学ぶには、たっぷりと時間が必要です。

 

「人生落ちるところまで落ちれば、後は這い上がるのみ」とはよく聞くことです。

多くのものを失って知り得ることや残ったものは紛いのない真実で、それを大切に握りしめていけば必ず光は差すと思っています。

例外なく、水原一平さんもその通りだと思っています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。