過食症はコントロールできない。気が付くための苦しみだから。

このブログを読んでくれている方で、「自分をコントロールできず苦しい」と思った経験がある方はどのくらいいるのでしょう。

 

私は10代半ば頃から40代前半まで拒食症と過食症で、そのうち過食症であった長い期間、自分をコントロールできないという思いを抱き、それが自分を苦しめていましたが、

 

摂食障害といった依存症(アルコール依存・薬物・買い物依存など)ではなくても、自分をコントロールできずに苦しいという思いを抱くこと、そんな経験って誰でもあったりすることなのでしょうか?

 

過食症

「食欲のコントロール不能になる」のではなく、

「食べるという行為のコントロール不能になる」のだと思っています。

 

食べたいという気持ちは常に持っていて、日頃は意識してそれを抑制しているので、食欲のコントロール不能になっていません。

 

災害に遭うなどして食べ物が調達できない時は、過食も鳴りを潜めるより仕方なくなります。

sayosalada.hatenablog.com

 

しかし、

その意識していた食欲のコントロールを振り切ってしまった時、

例えばそれは誰にでもあるような、

ダイエット中だから甘いものは食べちゃだめというような

「食べてはいけないと自分に指示していたコントロールを自分で破ってしまった時」、

 

食べ物を目で探し、食べ物を手で掴み、食べ物を口に入れ、食べ物を咀嚼し、咀嚼したものを飲み込むという

「『食べる』という一連の行為のコントロールが効かなくなってしまう」のだと思っています。

 

制御が効かない、歯止めが効かない、タガが外れる、スイッチのオフが効かなくなりずっと稼働している、

そんな状態にも似ているのが、過食症にある時でしょう。

 

ハッキリ言います。

「過食はコントロールできません」

 

規則正しい食生活でコントロールするとか、

過食する時間をつくらないようにしてコントロールするとか、

そんなことが書いてあるのを目にしたことがありますが、

 

私は、規則正しい食生活をしても、どんなに忙しくても過食していました。

 

私は一応管理栄養士なので、拒食心があったとしても、それなりに栄養を意識した規則正しい食生活をしていたと思っていますし、

 

摂食障害自助グループで出会い数年つながっていた女性は、夜遅くまで仕事をしてライブ活動もしてと多忙を極めていましたが、

夜遅く疲れた身体で帰宅して、テーブルについたら先ずビールというような感じで毎日過食し、インフルエンザで39度の高熱の時でさえ過食していたと嘆いていました。

 

ちなみに、

私が薬物治療をしていた時の精神科の先生は、過食したくなったらレモンをかじったり酸っぱいものを食べると食欲が抑えられるらしいよと私にアドバイスしてきたこともありましたが、

間違いなくレモンをかじった後に過食すると思ったので、実行していません。

 

どんな方法を使ったって、

マイルールを作り忠実に過ごしていても、

過食をコントロールすることなんてできないと私は思っています。

 

だってそれが、

過食症」という「症状・特徴」ですから。

 

なので、過食はコントロールできるという記事に私は共感できません。

 

過食はコントロールできないのだから、できないことに執着する必要などなくて、

それよりも、

今の自分の生き方が、自分が望んでいる生き方であるか、をじっくり考えた方が生産的だと思っています。

 

そりゃ、嫌ですよ。

制御が効かず限界まで食べ続ける自分に苛立ちと落胆を通り越して、死にたくなりますし。

職場でも所構わず過食したくなって、体調不良を理由に早退させてもらったこともありますし。

どうにかして限界まで食べることをやめたい、普通に食べたい、と願うのは分かるし理解できます。

 

けれど、伝えたい。

「過食は症状ですよ」と。

 

風邪をひいたとき、身体はウイルスを撃退しようと発熱し、その発熱によって強制的に活動が抑えられ休息をとるより仕方なくなります。

 

虫歯ができると、身体は痛みというシグナルでばい菌が身体を侵食していると教えてくれます。

 

発熱や痛みは「症状」で「シグナル」です。

過食も「症状」で「シグナル」です。

 

身体から投げかけられたシグナルを、そう簡単にコントロールできるはずないんです。

 

仮に、

簡単にコントロールできてしまったら、それはきっと一過性のもので、自分にとって大した問題ではなかったということだと思います。

問題が深ければ深いほどシグナルも大きく、コントロールできないものだと思っています。

 

症状というシグナルは苦しいものです。

発熱も痛みも苦しいです。

けれどもきっと、

人間、苦しみが伴わないと起きている問題に気が付きません。

 

過食という症状が苦しいと感じるのには、

何か「気が付けよ」ということが潜んでいることに間違いないと思っています。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

 

痩せている体型至上主義は変えられない。だから、「私が変わる」。

私は摂食障害の専門家ではなく、底辺でウロウロしている管理栄養士なのですが、

ただ過去20年間摂食障害だったという願いもしなかった貴重な経験から、

多分こうなんだろう、きっとこういうことなんだろうということを書いています。

 

この20年間で社会がアナログから完全にデジタルに変わり、

年功序列という社風は薄くなり、

女性も社会進出しやすくなるなど、時代の移り変わりを感じていますが、

そんな変化していく時代や社会の中で、痩せている体型至上主義は何も変化せずに残っているなと感じています。

 

痩せている体型至上主義は、変化の波に乗れずに時代に取り残されているということなのでしょうか、

 

それとも、

 

豊かな国では、太ることは簡単に叶い、痩せることに努力が必要で、

貧しい国では、太ることは困難で、痩せることは簡単に叶うという

物質的豊かさの違いからくる価値観の違いなのでしょうか。

 

恐らくどちらもですよね。

 

痩せている体型至上主義の現在の社会的な意識下では、多くの女性が摂食障害になるリスクを抱えていると言っても過言ではなく、

痩せている体型至上主義ではない社会的意識に変えていくことなんて、物質的に豊かな先進国には相当に困難なことなので、

 

摂食障害にならないために「生きる自信と強さを身に着けていくこと」

たとえ摂食障害になったとしても「生きる自信と強さを身に着けていくこと」

これが大切だと思っています。

 

社会に適応できず迷って摂食障害になっても「生きる強さと自信がある程度でもあれば」

自分がそうであったように、何とか社会と向き合っていけると私は考えています。

 

また、家族も最小単位の社会であるということを考えれば、親との付き合い方は摂食障害さんにとって重要な点だとも思っています。

 

「生きる強さと自信」ってどうしたら獲得できると思いますか?

人それぞれ獲得方法が違うかもしれませんね。

 

高収入になり地位を得ることが生きる強さと自信になる人もいるかもしれません。実際現物として有り、周囲にも分かりやすい形で、強さと自信につながりますよね。

 

けれども私は、お金や地位がなくても「自分を信頼すること」で生きる強さと自信を得ることができると思っていますし、

 

摂食障害さんは、この「自分への信頼が大きく欠如している」ので、これを獲得する努力が必要だと思っています。

 

では、自分を信頼するためにはどうしたら良いんでしょうねってことを考えるために、

 

「信頼できる人」って、どんな人をイメージするか考えてみます。

 

私は自分を1番信頼しているし、

自分以外に信頼している人って周囲にいない本当に寂しい人間で何とかしなくちゃと思っているのですが苦笑

 

約束を破らずに守ってくれたり

困った時に親身になってくれたり

嘘をつかなかったり

 

そんな誠実な人をイメージする人は多いんじゃないかと思っています。

 

自分がイメージする信頼できる人を自分の中に作り上げていくと、

時間はかかるけど自分を信頼できるようになると私は思っているんですよね。

 

自分にした約束を自分で破ってしまったら、

そんな自分に親身に寄り添う信頼できる自分を作ります。

 

例えば、

過食しないと誓ったのに過食してしまったら、

そんな約束を破った自分を責めずに今は仕方ないんだよと自分で自分を諭します。

 

無理している嘘をついて生きている自分に息苦しさを感じたら、等身大の自分を受け止めてくれる自分を作ります。

 

例えば、

本当はこんなことやりたくない、貴方とは一緒にいたくないと思っているのに無理をしていたら、本当の自分を頑張れと応援したり、嘘はつかなくていい無理しなくていいと自分で自分の後押しをします。

 

???と思う方もいると思いますし、

よくある自己肯定感を高めるやつで、

なんかちょっとイタイ作業にも感じるかもしれませんが、

 

この「自分がイメージする信頼できる人物」と共に生きていくような訓練をしていくと、

いつか、

その信頼できる人物と共に生きることが必要無いくらいに「自分を信頼できるようになる」と、胡散臭いかもしれないけど、自分の経験から思っています。

 

最初は、

約束を破る自分を信頼に値しないと叱咤する自分に潰されそうになりますが、

 

訓練していけば信頼できる人物になら「どうしても今は約束を守ることができない」そんな自分をさらけ出して、許しを乞うことができるようになり、

 

その人物は「今は必要なことだから良いよ」と受け入れてくれるようになります。

 

ただし、

この自分が信頼できる自分を作っていく訓練が、よくある自己肯定感を高めるやつとちょっと違うのは、

社会との関わりを避けてはなかなか訓練が進まないので、摂食障害の人は特にここに大きな努力がいることだと思っています。

社会とはもちろん、最小単位である家族も含め捉えます。

 

信頼できる人は、1日2日でその信頼を得ることなんてできませんよね。

日常の小さな対応の積み重ねでその信頼を得られたり、

大きな問題をクリアすれば信頼も爆上がりするように、

信頼に値する数や事例がやはり必要だと思うので、場数を踏むために社会との関わりは避けられないと思っています。

 

ちなみに、

私は自分を信頼できるまで40年ほど要しました。社会を恐れて行ったり来たりもしたし、自分に匙を投げて周囲の人に依存して生きていこうとした時もありました。

 

けれども、

このままではいけないという自分が自分に抱く葛藤には勝てず、

社会が怖くても社会という人との関わりの中で生きていくことが人間だと思え、

 

自分に匙を投げたところで、自分はこのままで良いんだろうかという違和感には勝てず、

投げた匙を拾いに行くのが人間の在るべき姿だと思いました。

 

葛藤や違和感を無視して生きることは、私にはどうしてもできませんでした。

社会を避けて生きていきたいのに、自分に責任なんて持ちたくなくても、

社会という場で、自分の責任のもとに生きていくことに強制的に連れ戻されるように、意識も現実も働いてしまうのが、もしかしたら人が生きるということなのかなとも思ったりしました。

 

「自分の考え方1つで世界は変わる」「世界を別の角度から捉えたら見方が変わる」と言われます。

 

痩せている体型至上主義を変えていくことが困難ならば、「自分の考え方や見方を変えていく」しかありません。

 

自分を信頼するまでにはそれなりに時間がかかるかもしれませんし、容易いことではありませんが、

これこそが、社会と付き合っていくための強力な武器になります。

 

親や家族という与えられた動かしにくい環境と付き合っていくにも、

自分が変わるより術がなく、自分を信頼できたら判断にも自分の選択にも迷うことが少なくなり、その選択を間違えたとしても立ち上がる強さと自信を身に付けることができます。

 

昔カウンセリングに通っていた時に、担当の先生に「『私は過食をしたくない』『私は過食なんてしない』って催眠療法してくださいよ」とお願いしたことがありました。

 

先生は笑って取り合ってくれませんでしたが、催眠術で過食しない暗示をかけてくれれば、そこから私は過食から解放されるんだからと当時は本当に願ったものでしたが、

この催眠療法は、過食症や拒食症には無意味なんだと今なら分かります。

 

催眠療法が上手くいったとして過食しなくなったとしても、他のことで問題が浮上し行き止まりになることでしょう。

 

なぜなら、

どうして摂食障害になったのか?ということを考えればよく分かります。

モラトリアムに在ったから摂食障害になったのです。催眠療法では恐らくモラトリアムは治せません。

 

自分の経験からではありますが、誰かの何かの参考になればいいなと思っています。

 

今回もダラダラと読みにくいブログになってしまいましたね、すみません。

最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

摂食障害というモラトリアム~予防策は得策ではないと思っています~

sayosalada.hatenablog.com

続きです。

 

ブログにも何度も書いていますが、

私は20年以上およそ人生の半分ほど摂食障害でした。

私は壮年期真っ只中までモラトリアムを体現していたということで間違いないと思っています。

 

最終的には、私の身体が悲鳴を上げて過食嘔吐が強制終了する形になりましたが、

この強制終了させられる前には、

「自分の人生には自分で責任を持ちたい」

そう思うようになっていました。

 

育った家庭を恨んでも、生まれ変われるわけじゃない。

良いことも悪いことも、私が招いたこと。

悪いことを誰かのせい、ご先祖様のせい、神様のせいにしても何も変わらないのなら、

自分がここから動こう、現状を動かすことで良くしていくしかないと思いました。

 

壮年期にようやく初めて「生きる自信と強さを身に付けた時」でした。

 

そんな気持ちで行動している中で、過食嘔吐は「惰性のように続いていた」ので、然るべき時に取り上げられたんだと思っています。

 

摂食障害になるような人って、自分軸がブレブレです。赤にも青にも紫にもなれる。自分が何者か分からないためです。

 

そのため、周囲の環境に飲み込まれやすく影響を受けやすく、あっちに揺れてこっちに揺れて気持ちも落ち着きません。

 

また、自分軸がブレブレだから周囲と自分を比較してばかりいます。

自分と他人との違いにも敏感です。

他人と違うことを「私は私でいい」と思えないのは、自分軸がなくブレブレだからです。

 

多くの人が諭してきます。

「自分は自分」「あなたはあなたでいいじゃない」

 

けれども、

自分軸がない人、自分という人間が分からない人は、そもそもの自分がブレブレだから、自分が自分がわからないので、

 

「自分は自分」「あなたはあなたでいい」と言われても

「それはそうだろうけど・・・その自分ってどの自分なの?この今感じている自分でいいの?」そんな自分に対する不安を自分に抱きます。

 

今は、私が10代20代の頃よりも多くの人が多様な価値観を抱いているようにも感じますが、

そこに、必ずしもシッカリとした自分軸は備わっていないのかもしれないという印象を持ちます。

 

独自の価値観や個性を光らせて活躍していた芸能人が自分で命を絶ってしまうのも、

そんなモヤモヤとした自分への葛藤、いつの間にか本来の自分ではなくて虚像を生きていたような感覚を抱いていたんだろうと感じてしまいます。

 

私たちは、自分が思っている以上に環境の影響を受けているし、それを是正していくことも想像以上にエネルギーのいる作業なのかもしれません。

 

そう考えると今の時代、摂食障害にしても何にしても、「自分軸をシッカリさせる」ことが本当に大切なんだということが見えてきます。

 

摂食障害若い女性の痩せを予防しようという啓蒙も増えてはきています。

 

近年、妊婦さんが体重増加を恐れるあまり低体重児の出産が増えるなど問題が浮上してきたことで、若い女性のダイエットへの警告が強化されてきましたが、

若い女性の痩せは増加の一途だという現実を見てみれば、その成果は上がっていないと分かります。

 

「しっかりバランス良く食べよう」

「無理なダイエットは健康を損ないます」

 

そんな表面的なところを綺麗に繕うような言葉で、摂食障害や痩せの予防は叶いません。

 

摂食障害はモラトリアムを体現化したものですから、しっかりとした自分軸を持つことが必要で、そんな「自分軸を育てるような社会」にしていかなければ、摂食障害はどうにもできません。

 

痩せている体型至上主義、痩せていることが賛美される社会にあるのに、

映えるスイーツ、映える食べ物はじゃんじゃん売り出されていき、

それでもやっぱり痩せたいと極端なダイエットに取り組み、

専門家らがダイエットはよくないからしっかり食べろと言っているテレビ画面には、スレンダーな女子アナやタレントが映り込んでいますから、

 

もう本当に忙しいイタチごっこです。

 

美味しいと言われるスイーツってどんどん増えていますよね。

何かヒットすれば、その商品を真似て各社その美味しいスイーツを発売するから、いつの間にか身近で似たようなスイーツが価格も抑えめで買えるようになって、枝分かれするようにその美味しいスイーツが全国に広がっていきます。

 

美味しいスイーツが広がれば、それだけその美味しいスイーツを口にする人が増えるわけですよね。

それなのに、若い女性の痩せ人口は右肩上がりです。

 

この太る代表でもあるようなスイーツは増えているのに、若い女性の痩せが増えているって、ちょっと面白いなと思います。

 

若い男性のスイーツ購入者も増えていますが、それでも今もなお、スイーツ購入者は男性より女性の方が多いようですし、

株式会社モンテールのスーパー・コンビニスイーツ白書2023では、

スイーツ購入頻度はZ世代が1番多いようなので、不思議な現象だなと感じます。

 

人は食べることの決定を自分自身で行っています。

それはお腹が空いたら食べるとか、美味しそうだから食べるとか、ごく自然な感情と共に自然に行動していくことなので、あまり意識にのぼらないかもしれませんが、

 

食べることの逆、食べないことの決定を自分自身で行っていることを思えば、食べるというごく自然にしていることの決定権が自分自身にあるんだということが良くわかります。

 

摂食障害の人は、そのごく自然な感情と共にある自然な行為、食べることの決定すらも揺らぎます。

食べたり吐いたりするのはその決定に揺らいでいる様で、その決定ができないのは「自分の選択に迷いがあるため」です。

 

自分という人間が信じられないから、

自分という人間が掴めないから、

自分という人間がわからないから、

自分の選択に自信が持てないのです。

 

つまり摂食障害は、

社会という自分を取り巻く環境に適応できず、生きること、アイデンティティに迷いを持った状態ということです。

 

摂食障害にならないためには、社会という環境に適応し迷わないようにすることが予防策となりますが、

 

与えられた環境に適応できない、もしかしたらそれこそ個性だと考えられるし、迷うことが人間なのだから、予防するなんてどう考えても無理だと思えます。

 

今の時代、摂食障害にならないための予防策は得策ではなく、

摂食障害になっても生きる自信と強さを身に着けていく策が求められている」と思っています。

これは、摂食障害になっても仕方がない動かせない避けようもない「痩せている体型至上主義的環境」が前提であるためです。

 

次回に続きます。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。

摂食障害というモラトリアム

 

「自分は何がしたいんだろう」

「自分はどんな人間なんだろう」

 

主には青年期において、

誰もがそんな「モラトリアム」的な課題に直面し悩んだことがあると思います。

 

でもこんなモラトリアム的な時期、

青年期ではなくても、壮年期においてもあるんじゃないかなと思っています。

 

ちなみに、

私は壮年期ですが、年がら年中モラトリアムみたいなところがあって、

社会との接点がイマイチ掴めていない、常にフィットしていない感覚を持っていて、

社会との違和感を抱きながら、常にベクトル探しをしている感じです。

 

いい年して地に足着かない大人でダサいなと、自分に対して思ってもいますが、

 

もしかしたら案外多くの人が、

青年期・壮年期・老年期というステージに関わらず、常にモラトリアム的な課題を持ちながら生活しているんじゃないかなと思っています。

 

壮年期には地に足着けて生きていけるかと思ったら「何だか違うぞ。そんなことはない」と思えませんか?

 

全然普通に生きることに迷うし、壁にぶつかる時には、

「自分は何がしたいのか?」「何がしたかったのか?」「何をするためにここまで来たんだ?」

という課題に直面していると思います。

 

老年期には余生を過ごしながら、

自分の人生はどうだったか、自分という人間はどういう人間だったか、

ということを振り返ったりするんじゃないかと思います。

 

「モラトリアム」って、何となく幼稚でメンヘラちっくな印象を持つ言葉ですが、

人生のステージを問わず、誰もが常に課題として抱えていることなんだと感じます。

 

摂食障害はモラトリアムを「究極に体現化させたもの」だと思っています。

 

痩せ細ることで助けて欲しい愛されたいと主張し、

過食嘔吐することで、自分の生きる源となる食を欲し受け入れながらも、嘔吐することでやっぱり嫌だと生きることを拒否します。

 

摂食障害に在る時は「自分の人生を模索するステージにいる時」だということです。

 

そして、

その摂食障害は社会的な影響をモロに受けるとブログでも何度も書いています。

 

飽食の時代には食が生きるためから娯楽に変化しました。

 

物流が整い、飲食市場が活性化し、低価格な食材が徒歩圏内で24時間手に入り、

ポチッと押せば自宅まで欲しい食材が届くようにもなり、「摂食障害が増えた」と考えています。

 

そして今は、「SNSの普及で摂食障害が加速した」と考えています。

 

容易に情報が手に入り、幸せそうで美しく装う他者を容易に覗き見することができることで、比較する場が果てしなく広がり、

自分と同じ状況にあることで安心できる材料も豊富に揃い、「摂食障害が増えている」と考えています。

 

情報が多すぎると迷います。

例えば、食パンを買おうとお店に行き、何十種類もの食パンが陳列されていたら、その中でどれを買えばいいか迷い、結局あれもこれもと籠に入れてしまうでしょう。

 

ダイエットに関する知識も様々で、手段も多すぎて、どれが嘘なのかフェイクなのか見極めたくて検索しても、嘘か嘘じゃないかの議論も分かれていたりします。

選択肢が多すぎても人は判断に迷います。

 

他者を容易に覗き見できることで、自分と比較することが増えるのも、

比較することが悪いわけではなく、

自分という人間に対してモヤがかかっているような脆弱化した状態では、

比較してからのベクトルが自分の劣等感へ向かう可能性があり、

比較対象が豊富であればあるほど、その劣等感や自己否定は高まります。

 

また、自分と同じ不幸だ見苦しい人間だと思えるような状況にある人を容易に探すことができるので、

何となく今のままではいけないような気がするけどどうすべきか分からず方向性を見失っているような時に、

自分と同じ境遇にある人がいるから大丈夫という都合の良い共通認識を抱いてしまい、

その状況から抜け出せなく可能性もあります。

 

その時代その時代で、摂食障害に陥る背景は若干異なるものの、共通していることは「モラトリアムだ」ということで、

 

「モラトリアム」を「よりモラトリアムに陥れ八方塞がりにするような仕組みがSNSにはある」ような気がしています。

 

ついでに言えば、

「いかに映えるか」「いかに盛れるか」

 

これって、切り取られた画面上のことだけではなく、「意識下においても」なんだろうと思っています。

 

「自分をいかに映えさせて魅せるか」

「自分をいかに盛って演出するか」

 

そういう「盛り勝負作業」が適している人も楽しめる人にもいると思いますが、

本当の自分像と盛っている自分とがあまりにも乖離してしまうと、個人にとって大きなストレスになると思います。

 

自分という人間がよくわからない時は、どうしても周囲の環境に飲み込まれてしまうので、

盛っている自分に疲れを感じているのに、もう歯止めが効かず、ある日ブチッと電池切れになるまで走ってしまうのがモラトリアムにある時でしょう。

 

更に言ってしまえば、

多様性が叫ばれて、性的マイノリティの活動が支持されたり、障害ある人の活躍の場が広がりつつあるのは喜ばしいことだなと思いますが、

 

「多様性」とか「個性」とか言う割に、どうにも「見せかけの個性」みたいなものを感じます。

 

これも何度かブログに書いていますが、

誰も彼もとは言わないまでも、YouTuberも個性派っぽく見せてるけど、今となってはどれも一緒、どこかの派生だと感じますし、

派手な髪色ってとても素敵だなと感じるけど、今となっては誰もがやっていることで珍しくも感じなくなりましたよね。

 

誰もがやっていることだからハードルが下がり、やりやすくなって増えたということなんでしょうか。

個性って決して目立つことを指すわけではありませんよね。

 

だんだん書いていて「老害だ!」と突っ込まれるかもしれないと思ってきましたが、

 

青年期ではなくても、

幸せを盛る人や、見せかけの個性とか武勇伝がかった個性をアピールする人が、一定数いるなと私は感じています。

 

画一化された時代が終わって、多様性とか個性とか探求とか、自由な生き方や自由な発想が尊重されてきている中で、

「個性の模索」は過渡期ならではなのでしょうか。

 

「個性を持とう」

「自分を表現すべきだ」

「自由に発言すべきだ」

 

そんなことが叫ばれつつある今の時代、

モラトリアムにある人には、実はとっても負担なんじゃないかと思っています。

 

自分の個性って、

自分を知ったその先に見つかるものだと思いますし、

自分という人間を知らないと表現もできないし、曖昧な発言になってしまいます。

 

自分という人間を知ってから光らせる個性を、青年期のうちに直ぐ様求められているような時代、

若いうちから個性を光らせている人と、自分を容易に比較してしまえる時代、

 

摂食障害に陥るような人には、とても辛く厳しい時代だと感じています。

 

次回に続きます。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。

「過食」と「大食い」と「食べ放題」の意味合い

私は過食症だった時に、1回の過食に1時間ほどかけていましたが、その1時間を限度にもうお腹いっぱいすぎて食べられなくなりました。

 

大食い大会や食べ放題が1時間程度の設定なのは、人間の「血糖値の上昇」と関わりがあると思っています。

 

食べ物を食べると、食物中の糖分が身体に吸収され、血液中に血糖が渡り血糖値が上昇します。

 

血糖値が上昇すると脳が「もう栄養は満ちていっぱいだ」と感知して、

私たちはその脳が感知したことを受けて「お腹がいっぱい」と認識できるようになっています。

 

私たちの血糖値のピークは食後1時間ほどです。

胃の容量などもありますが、健康な人であれば、もう食べられないとなるのが、この血糖値の上昇と関係しているので、

 

大食い大会や食べ放題では、人間のお腹がいっぱいになる血糖値の上昇を見計らった1時間設定なんだと思っています。

 

大食い大会や食べ放題は、この血糖値のピークを迎える1時間の間にどれだけ胃に食べ物を詰め込めるかの勝負になるわけです。

 

ここまで書いていてナンですが、

過食症の「過食」は「大食い」や「食べ放題」とは異なります。

 

何となく、やっていることは「食べ物を大量に食べる」ことなので同じような感じですが、「食べ物を大量に食べる」ことの意味合いがそれぞれ異なり、

 

過食症の「過食」の持つ意味合いはというと、

 

「食べたくないのに食べてしまう」という自分の行為に「葛藤を感じること」にあると思っています。

 

現代でいう「食事」は、

「生きていくため身体を維持していくための栄養補給」、

「美味しいものを食べる楽しみや、リラックスしたという安心や満足による精神的栄養補給」の他、

 

「食事という娯楽やレジャー」

食べ放題は娯楽の意味合いがある気がします。

「食事というスポーツのような身体を酷使した競い合い」

フードファイターという名前の通り大食いは競い合い、自己との闘いの意味合いがある気がします。

「食事という自己顕示欲や承認欲求」

食を通した自己アピールの意味合いがある気がします。

・・・などなど。

 

多様な意味合いを持つものとなっています。

 

これに、

「過食による食事の意味合い」を加え、さらに多様な意味合いを持たせるのなら、

 

過食は「食べたくないのに食べてしまう」という「自分の行為に葛藤を感じること」で、

イコールこのことは、

 

「食べる食べないといった食事の問題」に「すり替えられた人間の精神的な成長課題」

を意味しているのだと思っています。

 

「食べたくないのに食べてしまう」その現実行為にある表面的な苦しみが重要なのではなく、

その苦しい現実行為は何によって引き起こされているのかが問題です。

 

「なんで自分は食べて吐かなければいけないのか?」

「何が過食に投影されているのか?」

「自分は何を受け入れて食べて、何を拒絶して吐き出しているのか?」

 

これを深く深く時間をかけて掘り下げていくことが精神的な成長課題になるよという意味合いなのでしょう。

 

また、付け加えるのなら、

 

過食症に陥ると「身体が自分を支配して動く」ような時なので、

過食という大量に食べる行為を「コントロールすることはできません」。

 

身体が「急激に失った脂肪分を生命の危機だと察知して栄養を欲する時」

身体が「満たされない精神的な渇望を汲み取って栄養を欲する時」

 

過食に陥る時期はそんな、

「身体が健康を求めて栄養を欲する時」で、

ホメオスタシスと呼ばれる恒常性が働いている「自然な現象」なのです。

 

過食症に陥ると、食べたくないという意思に反して勝手に過食するので、身体が独り歩きして暴走しているように感じますが、

実は「身体が精神(心)のバランスをとろうと必死に調整をしている時」なのです。

 

この最中に自分を制御することはなかなかできません。

従うしかない、

辛いことを言うようですが、苦しむしかない時期かもしれません。

 

しかし、

従うしかない、苦しむしかない葛藤する時期に、考えるべきことが先程の

「すり替えられた人間の精神的な成長課題」についてです。

 

過食症は特定の人が陥る病気ではありますが、

誰もが通る人生の障害物の1つです。

 

過食症になってしまった人は、

過食症は自分に与えられた人生の障害物だと捉えるべきで、

障害物である過食症を乗り越えることが、人生の課題だということです。

 

食べる食べないといった問題に「すり替えられた人間の精神的な成長課題」のスタートは、「自分と向き合い自分を知る」ところから始まります。

 

身体に従いつつ、モチロン嘔吐という行為や下剤の乱用という行為で反発もしつつで正解です。

 

過食に陥った「自分の弱さ」を知り、

ちょっとやそっとじゃ折れない「強い自分」になるための準備をスタートさせていくのです。

 

食事の持つ意味合いは時代によって変化していきますが、

食事と過食の意味合いである「すり替えられた人間の精神的な成長課題」がリンクするのは、

 

先述した

食事という「自己顕示欲や承認欲求」・・・「食を通した自己アピール」とも似ているなと感じてしまいます。

 

もちろん一部の人限定ですが、

食事のアピールにすり替えられたものは何なんだろう?

時々、そんな人を見たりしては、成熟さに欠ける印象を持ってしまいます。

 

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。

 

過食嘔吐は大規模なメンテナンスへの警告。

昨年度、コロナウイルス感染症が5類に移行した初夏のこと。

 

コロナウイルス感染症が5類になっても高齢者施設に勤務しているので常にマスク生活なのですが、

それでも、マスクを外すような機会が出てくるかもしれないなと思い、自分の顔を改めて意識して見たところ、

 

「あれ?」と思うことがありました。

 

数年前より鼻の下に小さなイボができて嫌だなと思っていたのですが、マスク生活で気が付かないうちに、何だか大きくなっていることに今更ながら気が付きました(ほんとに情けないほど今更ながらでした)。

 

「皮膚科で除去してもらおう」

 

そんな簡単な気持ちで皮膚科を受診したところ「皮膚がんの可能性があるので大学病院を紹介します」と言われ、

思いもよらない展開に「え?どーいうこと?え?は?うそでしょ?」とザワザワと心乱され慌てふためくようなことがありました。

 

すぐに紹介状を手に、関東でも有名な大学病院に行き検査してもらいましたが、結果としては良性の腫瘤とのことで一安心。

 

検査結果を聞くまでは自分の顔がどうなるか心配で心配でたまりませんでしたが、

形成外科とコラボしてなんとかなりそうだと聞いたし、命に関わることではないから、そんなに落胆しなくても良いことだと自分に言い聞かせていた日々が、フワッとなくなり救われた気持ちになりました。

 

除去しなくても良いけど取ってしまいましょうか、という皮膚科の先生の勧め通りに、日帰りの除去手術をしました。

 

手術後は見るにも耐えないほど赤い組織が丸出しでえぐれていて、

後に皮膚が盛り上がり、このえぐれた凹みが本当に塞がるのかと不安になるほどでしたが、

 

半年ほど経った今では、ニキビ跡のようにポツッと赤みがある程度になりました。

 

手術なので保険適応で金銭的ダメージもなく、イボも取れて顔はスッキリと、最終的には満足いく結果になりました。

 

昔から気になり嫌だなと思っていたものから切り離されるって、生まれ変わったような心地になるなと感じています。

 

他人からしてみたら、スッキリしたね~良かったね~くらいのことでも、

 

自分の中では、

そのイボが生まれた時からイボが除去されるまでの期間にあった「様々な嫌な出来事までも」が、「自分から切り離されていく」ような感覚になりました。

 

これは1つのデトックスを帯びた「メンテナンス」だと感じました。

 

健康診断の結果で、メンテナンスが必要ですよと身体からのお知らせを知ることができますが、

「身体のメンテナンスは心のメンテナンス」でもあります。

 

多くの場合、身体と心は連動して動いているので、身体をメンテナンスするためには、「意識改革」も必要になります。

 

「これまでの行動を改めて、意識改革を図り、新たに実行していくこと」で、メンテナンス作業が完成します。

 

けれども、多くの人間が怠惰で欲だらけです。

そんなに簡単にこれまでの行動を改めることなんてできません。

私もできません。

 

何度も何度もしつこいくらいのメンテナンスの警告を受けて、スルーしきれないところになってやっと、行動は改められていくんじゃないかと思っています。

 

私のイボは原因不明。加齢による細胞の変異かなといったところみたいですが、

 

自分の中では、汚い膿が溜まっていたようなイメージです。

それは、数年前、過食嘔吐による習慣が原因となったであろう左上腹部に出来た良性腫瘍のように、日頃の無茶苦茶な行動の故と感じてしまいました。

sayosalada.hatenablog.com

素直にイボが加齢によるものだとしても、

取り除いてデトックスできて良かったわ

加齢じゃあ仕方ないわねと言うには勿体ないと思うので、

 

もう何年もスルーしておいたイボを問題視できたことに意味を見出して、

「自分のメンテナンス」に結び付けてしまえば、

その先の生き方・生き様につながるから有益で、イボにも価値が見いだせるってもんです。

 

これまでの過食嘔吐といった無茶苦茶な行動は私を救ってくれたけど、ストレスの温床でしかありませんでした。

過食嘔吐は加齢を加速させる」と言っても過言なんかではなく、かなり的を得ていると思います。

 

これからは、よりアンチエイジングに気を配ろうと思うし、アンチエイジングにはストレスをためることは絶対的にNGなので気をつけたいです。

 

過食嘔吐もメンテナンスが必要だよという「身体からの大きな警告」だと思っています。

 

過食して嘔吐するような無理を何十年となく続けていれば、身体が酷使されます。

身体の消耗としたらスポーツ選手並みになるんじゃないかと勝手に想像するほどに、身体をすり減らしていると思います。

 

何度も書いていますが、

過食嘔吐は症状」であって、

「本当の原因は別のところ」にあります。

症状を解決しようとしても無意味です。

 

風邪を引いて熱や咳が出るのは症状であって、原因はウイルス感染です。ウイルスを撃退しないと風邪は治りません。

 

また、もっと追求すれば、ウイルスに感染するような免疫力が低下した身体であることが原因だと考えることもできます。

 

過食嘔吐に陥るときは、「社会への免疫力が低下している」とも言えるでしょう。

 

免疫力を上げるためには自分に自信を持つこと。

免疫力を上げるために「自分に自信を持てるような経験を積んでいく」ことが大切です。

 

この「自分に自信を持てるような経験」は、

「他人が」とか「親が」とか「世の中の人が」じゃない、

「自分が」選んだ「自分が」自信を持てるものです。

そこを探し出すことが大きな課題になるでしょう。

 

過食嘔吐が伝えていることは、

「これから先の未来を生きていくために、身体と心を整えていく作業を必要としているよ」ということです。

 

「これまでの行動を改めて、意識改革を図り、新たに生きていくため」かなり大規模なメンテナンスの必要性への警告です。

 

何度も何度もしつこいくらいのメンテナンスの警告を受けて、スルーしきれないところに至るまできたら、自分と向き合うよりなくなるので、

 

その時にはきっと、

「自分という人間に価値を見出せる」ような、そんな「意識改革」が自分の中に芽生えてくると思います。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。

 

続・摂食障害は遺伝するのかしないのか?

前回の続きです。

sayosalada.hatenablog.com

そもそも、私が突然変異的に摂食障害になったとしても、

脈々と繋がれてきた摂食障害を持たない私の家系のどこかに、薄っすらと摂食障害となる「遺伝子の種」があったということも、考えられるでしょう。

 

今回は、摂食障害となる「遺伝子の種」となるものを探ってみようと思います。

 

探るにあたっては、私の遺伝子を持つ娘と対比させようと思います。

 

私が拒食症になったのは高校1年の夏です。

ダイエットをきっかけに拒食症となり、続けて過食症となりました。

 

長女は今年高校3年生

次女は今年中学3年生

どちらも多感な年齢で、私の発症年齢からもいつ摂食障害が発症してもおかしくないタイミングです。

 

特に長女は痩せ信者、ダイエット信者で、

「食べたい遊びたい」と「痩せたい可愛いって言われたい」が同居した状態です。

 

ダイエット信者の長女は高校2年生で本格的にダイエットをスタートさせて、元々細かった手足が、更に細くなりました。

 

一時期、「生理がこない」と私に訴えた時期があり、私は「貴方の身体には無理な体重だということだからしっかり食べなさい」と伝えました。

 

長女はそこから徐々に食べる量を増やし、生理が順調にくるまでに体重を戻しました。

 

ここ、ここなんです。

 

この「体重を戻す行動をとれたこと」が

私の遺伝子と違っているんだと感じるところだなあと思うのです。

 

長女は自分の身に起きていることを「これはやばいことだ」と感じることができたので、もっと痩せたいと思いながらも、そこから進むことなく自分の行動を変化させることができました。

 

私はそれができませんでした。

やばいと思いながらも、そのまま突き進みました。

 

私は昔から何でも「過剰にやり過ぎる傾向」があります。

 

例えば、

肩こりがあるからとマッサージをしますが、マッサージって力を加えすぎてもダメなのに、力をいれて長時間にわたり圧を加えてしまいがちです。

マッサージをしてリンパの流れを外側から促すことで肩こりが軽減するのに、圧を加えすぎてひどい痛みが出ることは数知れず。

 

また、歯磨きもやり過ぎると歯茎を痛め、力加減によっては歯肉が下がるのに、複数回やれば綺麗になると思っていた時期もありました。

 

力を入れすぎても意味ないと見て聞いても、「いやきっと念入りにやれば違うだろう」なんてどっかで思ってるんですよね。独自のやり方に振り切ってしまうというか。

 

この「過剰にやり過ぎる傾向」は、向かう方向性によってはすごく有意義なことでしょうが、方向性を間違えると、ただのアホにしか映らないと思えるのは、自分の経験からです。

 

娘たちには、この私のような過剰にやり過ぎる傾向は今のところ見当たらないんですよね。

引き際、切り替えが上手だなと感じます。

 

摂食障害になるような人は恐らく、「過剰にやり過ぎる傾向がある人」だと思いますが、

 

「過剰にやり過ぎる傾向」となるパーソナリティをつくる要素は何だろうと考えると、「完璧主義」なんだろうと思うのです。

 

「完璧主義」な人は、照準を当てたものに対して「自分が描いた世界を徹底して完成させよう」とします。

自分が描いた世界を作り上げるためには、多少強引なことも、一か八かの掛けとなっても厭わないという意識もあると思います。

 

私は頭が悪くて理解が浅く、独自の解釈をしがちでしたが、賢い人でも完璧主義であることで事実にフィルターがかかり、独自のやり方に走るというのはあるんじゃないかと思っています。

 

自分が摂食障害になる前から完璧主義だったのかというと、ハッキリしたことが言えませんが、

ハッキリとは言えないまでも、「幼少期〜学生時代の環境が私の完璧主義を作った」ような気はしています。

 

嫁姑問題があり、幼少期母親と触れ合いたくても、私は祖母と一緒にいなければいけませんでした。

友人もいない孤独な学生時代でもありました。

 

そんな寂しい時に、頼みの綱って「自分自身」だった気がします。

太っていて友達もいなくて頭が悪くて自分が大嫌いなのに、他に誰もいないから、そんなろくでもない自分だけを頼りに生きなければいけませんでした。

 

「自分だけが頼り」なので、その頼りにしている自分が描いた世界を徹底して完成させるよう、「自分に従事していく」ように生きていました。

 

これは、周囲や社会から自分を守るための「防衛」のひとつなんだろうと思っています。自分の描く世界に住むことで、社会や周囲を隔てることができました。

 

ブログで何度か書いていますが、「拒食症の世界は完璧な世界」です。

それは、痩せることに心も行動も矛盾なく生きていられる時だからです。孤独だけれど、自分の世界に閉じこもっていられるので、そこまで苦とは感じないのです。

 

(次のステージである過食症に進むと、こうはいきません。心と行動が矛盾するので完璧な世界ではいられなくなります。)

 

私が突然変異的に摂食障害になったのは、

 

痩せ賛美の時代背景と、置かれている孤独な環境が絡み合い、

 

環境となる土壌と水と太陽のアンバランスによって、完璧主義の「遺伝子の種」が周囲に虫が寄り付かないように過剰に生育してしまったという感じじゃないかと思っています。

 

そう考えると、

摂食障害は遺伝以上に「環境が大きく影響する」ことが理解できます。

1に環境2に環境といった感じですよね。

 

しかし、

飽食の時代、ストレス社会、SNSといった情報社会、これらの社会環境は自分で選ぶことができません。

 

親だって選ぶことができないから、

親ガチャで摂食障害の親が出てきてしまい、外れ。子どもが摂食障害になってしまうこともあるでしょう。

 

逆に、摂食障害の親じゃないマトモそうだから親ガチャ当たりと思っても、こんなはずじゃなかったという展開が待ち受けることもあり、

とれを引いたら当たりかなんて分からないのが現実です。

 

こうならないように注意しても、そっちが抜けてたかということが待ち受けて、どうあっても結局問題が浮上するのが生きることなんだろうと思います。

 

環境が絡み合い、摂食障害になってしまった場合には、悔しいけど悲しいけど環境を嘆いても仕方がないことです。

 

目の前に現れた現実に対して逃げずに対処していくより仕方がなくて、

そうすることで「一皮剥けろ」と「成長しろ」と促されていることだと受け止めるより他ないと思うのは、

摂食障害を克服したからこそ、伝えたい真実です。

 

今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。