摂食障害というモラトリアム

 

「自分は何がしたいんだろう」

「自分はどんな人間なんだろう」

 

主には青年期において、

誰もがそんな「モラトリアム」的な課題に直面し悩んだことがあると思います。

 

でもこんなモラトリアム的な時期、

青年期ではなくても、壮年期においてもあるんじゃないかなと思っています。

 

ちなみに、

私は壮年期ですが、年がら年中モラトリアムみたいなところがあって、

社会との接点がイマイチ掴めていない、常にフィットしていない感覚を持っていて、

社会との違和感を抱きながら、常にベクトル探しをしている感じです。

 

いい年して地に足着かない大人でダサいなと、自分に対して思ってもいますが、

 

もしかしたら案外多くの人が、

青年期・壮年期・老年期というステージに関わらず、常にモラトリアム的な課題を持ちながら生活しているんじゃないかなと思っています。

 

壮年期には地に足着けて生きていけるかと思ったら「何だか違うぞ。そんなことはない」と思えませんか?

 

全然普通に生きることに迷うし、壁にぶつかる時には、

「自分は何がしたいのか?」「何がしたかったのか?」「何をするためにここまで来たんだ?」

という課題に直面していると思います。

 

老年期には余生を過ごしながら、

自分の人生はどうだったか、自分という人間はどういう人間だったか、

ということを振り返ったりするんじゃないかと思います。

 

「モラトリアム」って、何となく幼稚でメンヘラちっくな印象を持つ言葉ですが、

人生のステージを問わず、誰もが常に課題として抱えていることなんだと感じます。

 

摂食障害はモラトリアムを「究極に体現化させたもの」だと思っています。

 

痩せ細ることで助けて欲しい愛されたいと主張し、

過食嘔吐することで、自分の生きる源となる食を欲し受け入れながらも、嘔吐することでやっぱり嫌だと生きることを拒否します。

 

摂食障害に在る時は「自分の人生を模索するステージにいる時」だということです。

 

そして、

その摂食障害は社会的な影響をモロに受けるとブログでも何度も書いています。

 

飽食の時代には食が生きるためから娯楽に変化しました。

 

物流が整い、飲食市場が活性化し、低価格な食材が徒歩圏内で24時間手に入り、

ポチッと押せば自宅まで欲しい食材が届くようにもなり、「摂食障害が増えた」と考えています。

 

そして今は、「SNSの普及で摂食障害が加速した」と考えています。

 

容易に情報が手に入り、幸せそうで美しく装う他者を容易に覗き見することができることで、比較する場が果てしなく広がり、

自分と同じ状況にあることで安心できる材料も豊富に揃い、「摂食障害が増えている」と考えています。

 

情報が多すぎると迷います。

例えば、食パンを買おうとお店に行き、何十種類もの食パンが陳列されていたら、その中でどれを買えばいいか迷い、結局あれもこれもと籠に入れてしまうでしょう。

 

ダイエットに関する知識も様々で、手段も多すぎて、どれが嘘なのかフェイクなのか見極めたくて検索しても、嘘か嘘じゃないかの議論も分かれていたりします。

選択肢が多すぎても人は判断に迷います。

 

他者を容易に覗き見できることで、自分と比較することが増えるのも、

比較することが悪いわけではなく、

自分という人間に対してモヤがかかっているような脆弱化した状態では、

比較してからのベクトルが自分の劣等感へ向かう可能性があり、

比較対象が豊富であればあるほど、その劣等感や自己否定は高まります。

 

また、自分と同じ不幸だ見苦しい人間だと思えるような状況にある人を容易に探すことができるので、

何となく今のままではいけないような気がするけどどうすべきか分からず方向性を見失っているような時に、

自分と同じ境遇にある人がいるから大丈夫という都合の良い共通認識を抱いてしまい、

その状況から抜け出せなく可能性もあります。

 

その時代その時代で、摂食障害に陥る背景は若干異なるものの、共通していることは「モラトリアムだ」ということで、

 

「モラトリアム」を「よりモラトリアムに陥れ八方塞がりにするような仕組みがSNSにはある」ような気がしています。

 

ついでに言えば、

「いかに映えるか」「いかに盛れるか」

 

これって、切り取られた画面上のことだけではなく、「意識下においても」なんだろうと思っています。

 

「自分をいかに映えさせて魅せるか」

「自分をいかに盛って演出するか」

 

そういう「盛り勝負作業」が適している人も楽しめる人にもいると思いますが、

本当の自分像と盛っている自分とがあまりにも乖離してしまうと、個人にとって大きなストレスになると思います。

 

自分という人間がよくわからない時は、どうしても周囲の環境に飲み込まれてしまうので、

盛っている自分に疲れを感じているのに、もう歯止めが効かず、ある日ブチッと電池切れになるまで走ってしまうのがモラトリアムにある時でしょう。

 

更に言ってしまえば、

多様性が叫ばれて、性的マイノリティの活動が支持されたり、障害ある人の活躍の場が広がりつつあるのは喜ばしいことだなと思いますが、

 

「多様性」とか「個性」とか言う割に、どうにも「見せかけの個性」みたいなものを感じます。

 

これも何度かブログに書いていますが、

誰も彼もとは言わないまでも、YouTuberも個性派っぽく見せてるけど、今となってはどれも一緒、どこかの派生だと感じますし、

派手な髪色ってとても素敵だなと感じるけど、今となっては誰もがやっていることで珍しくも感じなくなりましたよね。

 

誰もがやっていることだからハードルが下がり、やりやすくなって増えたということなんでしょうか。

個性って決して目立つことを指すわけではありませんよね。

 

だんだん書いていて「老害だ!」と突っ込まれるかもしれないと思ってきましたが、

 

青年期ではなくても、

幸せを盛る人や、見せかけの個性とか武勇伝がかった個性をアピールする人が、一定数いるなと私は感じています。

 

画一化された時代が終わって、多様性とか個性とか探求とか、自由な生き方や自由な発想が尊重されてきている中で、

「個性の模索」は過渡期ならではなのでしょうか。

 

「個性を持とう」

「自分を表現すべきだ」

「自由に発言すべきだ」

 

そんなことが叫ばれつつある今の時代、

モラトリアムにある人には、実はとっても負担なんじゃないかと思っています。

 

自分の個性って、

自分を知ったその先に見つかるものだと思いますし、

自分という人間を知らないと表現もできないし、曖昧な発言になってしまいます。

 

自分という人間を知ってから光らせる個性を、青年期のうちに直ぐ様求められているような時代、

若いうちから個性を光らせている人と、自分を容易に比較してしまえる時代、

 

摂食障害に陥るような人には、とても辛く厳しい時代だと感じています。

 

次回に続きます。

 

今回も読んで頂きありがとうございました。