食べる→受け入れる→栄養と幸せ

食べるという行為は本能です。

 

睡眠、食事、性欲とともに、

3大欲求のひとつであり、

生きるために食べないといけない

生理的なものです。

 

食べることは本能なので、

食べるという行為は、

ある種理性を取っ払った、

自分をさらけ出す行為だと思っています。

 

人と一緒に食事をすることに

恐怖感を抱いていた頃がありました。

 

外食だと低カロリーの食事がなかなかないし、

お店も自分で選べないし、

高カロリーの食べ物を口にしないようにしている努力は、

ダサい感じがして恥ずかしいし、

 

そんないろいろな理由で

 

食べたくもないものを食べて太ってしまう

ということが恐怖でした。

 

そして、

恐怖の類として、ひとつ異なるものに、

「人と食べることが怖い」

という気持ちもありました。

 

そうですね、

「怖い」というよりは

緊張感といった方が、ピッタリくるかもしれません。

そんな気持ちを抱いていました。

 

拒食症当時は

周囲の世界をシャットアウトしていたので、

誰かと一緒にいるということはなかったので、

誰かと一緒に食事をする心配なんてありませんでしたが、

 

完璧な拒食症から脱して、

少しずつ食事を摂りはじめていた頃

まだ周囲の世界を受け入れられなくて、

一緒に暮らす家族に対しても、

緊張感を抱いていました。

 

母との食事は怖くないけど、

父がいると少し緊張する、

兄がいると、とにかく早く食事を終わらせよう、

この場を立ち去ろうと食事を口に放り込む、

という感じでした。

 

例えば、

大好きな彼とデートすることになって、

一緒にランチしようとなったら、

嬉しいのはモチロン

ちょっと緊張しませんか?

 

普段のように豪快に食べられず、

食べる自分の姿をどうしても意識してしまいませんか?

 

普段のように「無防備」に食べる姿は、

やっぱり仲良く親密な関係になってから、

という方はいると思います。

 

 

好きだけど緊張する

好きだけど無防備には抵抗がある

という心理が働くのか、

母以外の家族に対して緊張感を抱いていました。

 

同じような話で、

私と同じく過食症だった友人を

自分の結婚式に招待した際、

「○○ちゃんの結婚式で食べた食事は吐かなかったよ」

と言ってくれたことを思いました。

 

 

食べることは生きること

食物を食べて消化吸収して

自分を構成するエネルギー源とすること。

 

「一緒に食べる人を受け入れることができれば、一緒に食べたその食べ物までも、

自分を構成するものとして、受け入れることができる。」

 

極端に言えば、

そんなことになるんだろうと思っています。

 

摂食障害さんは極端に言わずとも、

このような心理になってるんじゃないかなと感じています。

 

摂食障害さんではなく、

普通に食事を摂れる、

いわゆる普通の人には

 

ちょっとよく分からない

そんな解釈ないでしょ

 

と思われる話かもしれませんが、

 

 

嫌いな人と食事をしたり

社会的な付き合いで仕方なく食事をしたりする場面では

無防備ではいられないし

食事を美味しく食べる

ということは感じられにくいです。

 

それらの環境による食事が大きなストレスとなる場合、

消化不良を起こして

腹痛や下痢といった症状が現れることもあります。

 

そんな身体と心のつながりを思うと、

 

一緒に食事を食べる人や周囲の環境を受け入れることで、

身体と心はその食事を受け入れて、

その食事から得られる栄養素やエネルギー源を

自分を構成する一部のものとして消化させ、

身体に吸収することができる。

 

そんな気がしてきます。

 

食べることは本能であるのだから、

本来はきっと、

あれこれと制約がある環境下ですべきこと(食べること)

ではないのかもしれません。

 

のびのびと、心地良く開放的に食べればいい

 

それが人間の本来の喜びなのかなと

そんなことも思えます。

 

 

食べるという行為は生きるためだけではなく、

満たされる喜びと安心と、

五感を深く刺激して

幸福感を与えてくれるのもでもあります。

 

摂食障害の人は、

食事を拒絶し

食事を1度体内に入れても拒否するため、

周囲の人、周囲の環境を受け入れがたい状態である

ということが言えると

私は考えていますが、

 

辛くても自分ときちんと向き合っていれば、

いずれ、何かがキッカケとなって、

周囲の人、周囲の環境を

受け入れられる日がやって来ると思います。