「右が大きく下がれば、左は大きく上がる」シーソーして成り立つバランス。

私は若い頃、0か100かと極端な思考でした。

 

「適度な」というものが分かりにくく、

やり過ぎて逆に良くない結果になりがちでした。

 

過去には、上手くいかない社会との接点を、

極端に痩せることで埋め合わせていました。

 

ダイエットのやり過ぎ、極端なダイエットで、

摂食障害を長く患うこととなりました。

 

痩せるという誰もが羨ましく憧れる殻をかぶることで、

自信がなくて、

生きていくことを躊躇うような自分であっても、

なんとか社会で生きることができました。

 

過食症という摂食障害に悩まされていたので、

大量の食べ物を食べては吐いて、

下剤を乱用して、

身体はボロボロでした。

 

けれども、

心と身体は本当に上手く働いていて、

 

身体はボロボロである変わりに、

身体を代償とする変わりに

精神は社会に掴まって、生きていくことができました。

 

何とか社会適合できていた代償は、

年月を経ても私の身体にしっかり留まっていて、

 

1度体内に入れたものを強制的に戻すという

人間の生理的運動ではないこと

自然の流れとは逆の流れは、

身体にとってはとても負担で、

繰り返され積み重なった負担は、

主に食道と胃の不調と、

食道と胃の不調から生じる不調となって、

過去の代償と共に私は生活しています。

 

身体と心はバランスするなと感じます。

 

心も身体も穏やかであれば、

もちろんバランスしますが、

 

過去の私のように、

身体を痛めつけて、心の安らぎを得る

ことはあるのだと思います。

 

「右が大きく下がれば、左は大きく上がる」

 

「シーソーのような原理」なんだろうと感じます。

「極端から極端」でも、バランスは取れるのです。

 

私たちの周囲は、

この「シーソーしているバランス」が、

以外と多いことに気が付きます。

 

「仕事が多忙なばかりに、家庭の時間が激減する」

「しっかり者の奥様に、ズボラな旦那様のご夫婦」

ニートの子どもを支える、高齢でも比較的健康な両親」

脳梗塞で倒れ半身麻痺で積み上げてきたキャリアを完全に失ったけど、ゼロになった自分に寄り添ってくれる主人の深い愛に気が付いた」

 

太陽が昇れば月が沈むように

良い悪いは別として、

それはそれで、バランスしているといえます。

 

そう考えると、

私の摂食障害は良い悪いは別として、

バランスをとるために必要だった

といえるように感じています。

 

ちなみに、

脳梗塞で倒れ半身麻痺で積み上げてきたキャリアを完全に失ったけど、ゼロになった自分に寄り添ってくれる主人の深い愛に気が付いた」

 

これは、私がほんの少しだけ携わった訪問介護のご利用者様(40代半ばの女性)の話で、

 

この女性はそれまでのキャリアを失うことになったけど、

ご主人の強い愛を獲得することができたと考えれば、

そこには、「シーソーのバランス」が生じています。

 

何かを失っても、見えるものがある

何かを失ったからこそ、見えるものがある

何かを犠牲にして、他を獲得する

何かを得ているばかりに、他が犠牲になる

 

そんなバランスは「自然の摂理」として在るのだろうと感じます。

 

女性は病気をする前からご主人の愛を受け取っていたかもしれないけど、

 

それまでのキャリアが失くなり、

再び人生をスタートさせなければいけない、

また新たに自分を立て直していくという時に、

寄り添ってくれる人がいたという

今までに感じ得なかったほどの感謝の念を、

ご主人に抱いたことだろうと想像します。

 

しかし、

何かを失って、

「見えるもの、見えてくるもの」は、

勝手に視界に映るわけではないと思っています。

 

暗がりに様々な方角から光をあて、

失ったもので空虚と化した自分に、

再び必要なものは何か見出すのは自分です。

 

失ったもの、今はもう無いものに執着していては、

周囲は真っ暗なままで、

どこからも光があてられません。

 

良い悪いは別にして、

バランスして物事は成り立つと感じますが、

 

「物事は必ず変化していくもの」なので、

その成り立っているバランスは

いつまでも固定することはあり得ません。

 

今が嫌だなと思ったら、

バランスを変化・調整するよう

「気持ちを動かし行動すること」です。

 

移り変わる季節のように、

私たちは常に、絶妙にバランスを変化させながら生活することが自然な状態なので、

変化させることは無理でも不可能なことでもなく、

「ごく自然で可能なこと」です。